➤逆境のエンジェルとは
アメリカで暮らす筆者が、いじめ、身体障がい、音楽への情熱、異文化での生活、人種差別、仏教との出会いを通じて成長していく物語。個人的な体験を超え、社会の不平等や共生の課題にも鋭く斬り込み、逆境のなかで希望を見出す力を描きます。
➤前回のあらすじ
アメリカでの静かな年越しを迎えるなかで、感じたこと、今年意識していきたいことについて書いています。
老いと桜に、揺れる心を移して
河津桜の下で、老いと向き合う
早いもので、あっという間に2月も終わろうとしています。この記事がみなさんのもとに届くころには、もう3月。季節は確実に移ろい、私たちの身体も、家族の姿も、同じように移ろっていきます。
先日、日本へ帰省していました。
今回の帰省では、老いゆく母のこれからについて、医療や福祉に携わる方々と話をする機会が多くありました。
これからどのような変化が起こるのか。どのような暮らし方が母にとってよいのか。
現実的なことを一つひとつ考えていくなかで、さびしさや悲しさを感じる一方、頭のなかをフル回転させているような緊張感もありました。
けれど、その合間に、満開の河津桜(カワヅザクラ)を見ることができました。

久しぶりに、母と並んで桜を見上げました。
土手沿いは大勢の人でにぎわい、露店の甘い香りが漂っています。私たちはお団子を頬ばりながら、ゆっくりと歩きました。
母の歩幅は、かつてよりも小さく、足取りも慎重です。時折立ち止まり、「きれいねえ」と少女のように無邪気に喜ぶ姿が印象的でした。
けれど、その愛おしい時間の裏側で、私は自分の未熟さとも向き合っていました。
同じことを何度も尋ねる母。さっき話したことを忘れてしまう母。
頭では老いよる変化だとわかっているのに、私はときにいらだち、つい語気を強めてしまいます。そして、きつく当たったあとで自己嫌悪が押し寄せます。
仏教には「無我」という教えがあります。
自分自身でさえ、自分の思い通りにならない存在であり、固定した“私”などどこにもない。ましてや、子どもや親が自分のものであるはずがない。
その言葉を思い浮かべながらも、感情は簡単には整いません。
「こうあってほしい」という私の期待と、目の前にある現実がぶつかるたびに、心は波立ちます。
わかっているのに、受け止めきれない。
そんな、折り合いのつかない思いに揺れながら、今回の帰省ではどっと疲労感を覚えました。
仏教では「諸行無常」と説きます。
すべてのものは移ろい、同じ姿にとどまることはない。
頭ではわかっているはずなのに、母の老いに直面すると、私はどこかで「変わらないでいてほしい」と願っている自分に気づきます。
けれど、桜もまた、咲き、散り、葉を茂らせ、やがて枝だけになる。その移ろいこそが自然なのだと。そう自分に言い聞かせるように桜を見上げていました。
変わりゆく国、変わらぬ郷愁
久しぶりに日本へ戻るたびに、変わっていく日本の姿にも気づかされます。
インバウンドの影響で、以前よりも海外から訪れる人が増え、空港や街のなかでは、さまざまな言葉が聞こえてきます。
働く人たちの背景も、ずいぶん多様になったように感じます。
店頭に並ぶメニューには欧米風のものが増え、日本の食卓も確実に変わっています。
そんななか、私は滞在中、自然と和食を選んでいました。年齢を重ねるとは、経験や考え方が外へ広がると同時に、自分のルーツへ戻ることなのかもしれません。

側(はた)を楽にするということ
今回の帰省では、医療や福祉の現場で、多くの方のお世話になりました。
限られた滞在のなかで相談を進めたいというこちらの事情にも耳を傾け、できる範囲で予定を調整し、その後についても丁寧に説明してくださいました。
私自身、アメリカで医療に関わる仕事をしているため、国による制度や仕事の進め方の違いを感じることがあります。
もちろん、どちらが優れているという単純な話ではありません。
それでも今回、目の前の人が少しでも困らないようにと、もう一歩手を差し伸べてくださる姿に何度も出会いました。
「働く」という言葉を、「側(はた)にいる人を楽にする」という捉え方と重ねて語ることがあります。
語源がどうであるかは別として、私はこの言葉が好きです。
相手の困りごとを少し軽くする。
その姿勢は、仏教でいう「慈悲」にも通じるものがあるように思います。
もちろん、すべてが気持ちのよい対応だったわけではありません。思わずカチンとすることもありました。
それでも、人を支えるために働く方々の姿から、あらためて教えられることの多い帰省でした。

優劣のまなざしと、心の整形
接客で感じた光と影
日本のサービスには、いまでも驚かされることがあります。
こちらの事情を聞いて柔軟に対応してくださったり、少し先を考えて案内してくださったり。
長く海外で暮らしていると、そうした細やかさに、あらためて気づかされます。
その一方で、ホテルや空港などでは、少し気になる場面もありました。
マニュアル通りの受け答えは丁寧でも、想定外の質問になると急に余裕がなくなってしまう。
また、私には、相手の国籍や見た目によって接し方が違うように感じられる場面もありました。
もちろん、短い場面だけで相手の意図を決めつけることはできません。
それでも私は、そこから自分自身を含め、私たちのなかにある「人を比べる心」について考えました。
国籍も、言語も、経済力も、人としての尊さを測る尺度ではありません。
けれど私たちは、知らず知らずのうちに、さまざまな基準で人を比べ、上や下をつくってしまうことがあります。
以前、大愚和尚のお話のなかで、外見を整えることだけではなく、「心を整える」ことの大切さについて語られていたことを思い出しました。
外見は、年齢とともに変わっていきます。
しかし、心のあり方は、歳を重ねながら育てていくことができる。
それは、若さとは違う美しさにつながっていくのかもしれません。
人の生き方は、表情やまなざしにも表れるといいます。
では、いまの私は、どんな目をしているのだろう。
そんなことを考えました。

桜のように、いまを生きる
老いは止められません。社会の変化も止まりません。混雑する空港も、多文化の街並みも、マニュアル化された接客も、すべては時代の流れの一部です。
けれど、そのなかで、口喧嘩をしながらも母と桜を見上げた時間は、かけがえのない「いま」でした。
何か特別な場所にだけ、仏教の教えがあるわけではありません。
母にいらだってしまう自分の心にも、人から受けた親切にも、誰かを比べてしまう心にも、そして桜を見上げる何気ない時間にも、仏教につながる問いがあります。
変わっていくものを、変わっていくものとして見ること。
そして、いま目の前にある時間を大切にすること。
そんなことを考えながら、私はアメリカへの帰路につきました。
第63話はこちら
記事の一覧はこちら
(感想、メッセージは下のコメント欄から。みなさまからの書き込みが、作者エンジェル恵津子さんのエネルギーとなります。よろしくお願いします。by寺町新聞編集室)


コメント