一問一答ものがたり

満たされない心と、どう向き合うか

私に刺さった一問一答のテーマ、今回ご紹介するのは「満たされない心と、どう向き合うか」です。

「全てが満たされた暮らしなのに、自分の心は幸せを感じられない」
「自分が何に悩んでいるのかさえ分からず、ただ毎日生きることが苦しい」

周囲から見れば全てが満たされているのに、自分の心だけが満たされない時、わたしたちは人生に対してどのように向き合えばよいのでしょうか?

大愚和尚の仏教の教えが紐解く答えと、このテーマが私に刺さった理由をご紹介します。

ご相談者のお悩み

ペンネームボブさん、40代女性のお悩みです。

私は、自分でも何が不満で苦しいのか分かりません。

容姿端麗で、立派な会社に勤め、大きな住まいと円満な家庭があります。周囲から見れば何の不足もないように見えるでしょう。

ですが、私の心は、私が求めている本当の幸せとは程遠い気持ちでいっぱいです。

とにかく生きるのが苦しく、しかし死ぬことも許されません。苦しみから抜け出せない私を、どうか助けてください。

大愚和尚の教え

現代社会では多くの人たちが行き交い、特に都会にはあらゆる場所に人がいます。

しかし多くの人の中で過ごしながら、例えば会社や学校、時には家庭ですら、そこに自分の居場所がなく孤独を感じている人がいます。

多くの人が自分がそこへ所属していながら、周囲の人たちとの関係が上手くいかずに生きづらさを感じているのです。

社会の中で人々が、自分の意志や願望だと信じて活動していることが、実は本当に自分がやりたいことや求めているものではないということがあります。

また、人生にとっての幸せや、成し遂げたいこと、なりたい姿が自分の中から出てくるものではないこともあります。

それらはいつの間にか両親や周囲の人、マスメディアや社会の風潮として無意識のうちに受け取った間違ったメッセージかもしれません。

自分にとって価値があると思い追い求めたもの、手に入れたら幸せになれると信じて懸命に手に入れたものが、実はそれらによって幸せにはならないということがあります。これは私たちにとって大きなショックであり、大きな喪失感であると大愚和尚はいいます。

お釈迦さまはもともと、「クシャトリア」という、社会の中で高い階級に所属し、王様の子供として何不自由なく生活をしていました。しかし、お釈迦様はその世界に幸せを見出せずに、それらを捨てて出家されました。

そして同じく、自分の生活に幸せを感じられずにお釈迦様の弟子になった人が多くおられました。そこで弟子となったのは、当時のインドの社会の中では決して貧困層ではない方々だったのです。

最も苦しいはずの貧困層というわけでもなく、ある程度満たされた生活をしていたと思われる人々が「本当の幸せ」を求めた先にあったもの、それは「生きがい」でした。

さて、その「生きがい」とはどんなものだったのか。自分が幸せだと思って追い求めていたものが、実は本当の幸せではなかったと行き詰った時、私たちはどこに幸せを見出して生きていけばいいのでしょうか?

処方箋を見ていきましょう。続きは動画でご覧ください。(下の画像をクリックしてください)

一問一答が私に刺さった理由

現代の日本では、ある程度の衣食住が整い、誰もが物質的に恵まれた暮らしが出来ます。

しかし一見恵まれた生活をしていても、心がどこか満たされないという感覚は、誰しもが一度は経験しているのではないでしょうか。

自分にとって本当の幸せとは何か。自分が人生で本当にやりたいこと、求めているものは何なのか。そして自分にとって本当に豊かな生き方とはどういうものなのか。

世間や親から見聞きしたものではない、自分の内側から湧き上がってくる「本当の喜び、なりたい姿」。実はそれは、華やかなものや豪華なものではないのかもしれません。

この一問一答に出会い、自分にとっての「本当の幸せ」「真の豊かさ」に目を向けることと、自分自身が心から望む人生へと舵をとる大切さを噛みしめました。

唐木 貴子

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