➤逆境のエンジェルとは
アメリカで暮らす筆者が、異文化のなかで感じる違和感、人とのすれ違い、老いや心の揺れ、ときには自分自身の失敗を通して、「人はどうすれば、思い通りにならない人生をよりよく生きられるのか」を考えます。仏教の教えも交えながら、日常のなかにそのヒントを探す連載です。
➤前回のあらすじ
わが家に現れたアルゼンチンアリの大行列。「生き物を殺さない」という仏教の教えと、家を清潔に保つ現実の間で迷った筆者。そして、アリの侵入口をふさぐために、人生で初めてコーキングガンを手にしますが、こんなことになるとは……。(第68話『アリの大行列が教えてくれたこと――不殺生と暮らし、その先に待っていたDIY』はこちらからご覧ください)。
1本のコーキングガンから始まった
すべての始まりは、アリの侵入口をふさぐためのコーキングでした。最初の目的は、とても単純でした。
「この隙間をふさげば、アリが入ってこない」。ただ、それだけだったのです。
コーキングガンを握り、隙間に沿って、恐る恐る材料を出していきます。最初は太くなったり、曲がったり。
「こんなものかな?」と思いながら何度かやっているうちに、少しずつコツがわかってきました。
そして、スーッときれいに一本の線が引けた瞬間、
「おお、できた!」
妙な達成感がありました。すると、1カ所きれいになった途端、今度はその隣が気になります。
「あれ? ここにも隙間がある」
「この穴も埋められるんじゃない?」
「ここも、ついでに……」
気がつけば、コーキングガンを片手に家のなかをウロウロ。アリとは何の関係もない場所まで探し始めていました。
昨日まで気にも留めなかった壁の小さな穴や隙間が、急にこちらに向かって、「ここもですよ」と訴えてくるように見えるのです。
DIYって、こんなに面白かったの?
そして何より、やってみると面白い。これまで家の修理といえば、「私にはできない。誰かに頼むもの」と思っていました。
でも、調べながらやってみると、意外とできることがあります。もちろん、失敗もするし、きれいにいかないこともあります。
それでも、自分の手で少しずつ家が変わっていくのは、なんとも楽しいものです。

すると、「ここも直せそう」「ここを塗ったら、もっときれいになるのでは?」「庭も少し変えられるんじゃない?」と、想像がどんどん広がっていきました。ついには庭を眺めながら、「ここに、もうひとつ花壇をつくったらどうだろう」などと考え始める始末です。
最初はアリの侵入口をふさぐだけだったはずです。それが、コーキング、壁の補修、庭、花壇づくりへと広がり……もうアリは、どこにも登場していません。
「もっと」は悪いこと?
そんな自分を見ながら、ふと思いました。
「これって、仏教でいう『欲』なのだろうか?」
仏教には、「渇愛(かつあい)」という言葉があります。「もっと欲しい」「思いどおりにしたい」と求め、その気持ちを手放せなくなる心のことです。
そう考えると、「ここも」「次はあそこも」と広がっていく私のDIY熱も、少々あやしい。
ただし仏教は、何かを「やってみたい」と思う気持ちを、すべて悪いものと考えるわけではありません。「チャンダ」という、何かをしようとする意欲を表す言葉もあります。その意欲は、何を目指し、どのような心で行動するかによって、よい方向にも、そうでない方向にも働きます。
「自分でもやってみたい」「少し上手になりたい」という思いは、私たちを前へ動かしてくれます。けれど、その楽しさに夢中になるあまり、周囲が見えなくなったり、その気持ちを手放せなくなったりすれば、少し立ち止まる必要があります。
当時の私は、立ち止まるどころか、ベランダを眺めていました。

そして、ベランダへ
ここまで読んくださった方は、「なるほど。自分の欲に気づいて、ほどほどにDIYを楽しんだのですね」と思われたかもしれません。残念ながら、そうではありません。
目の前にあったのは、古くなった木製のベランダでした。雨や日差しにさらされ、塗装もかなり傷んでいます。
以前なら、「古くなったなあ」で終わっていたでしょう。ところが、すっかりDIYに気をよくした私は、
「これ……私にも塗れるんじゃない?」と思ってしまいました。
いま思えば、この思いつきが危険でした。
「少しだけ」のつもりで刷毛を持ったものの、一部分が白くなると、その隣の古さが際立ちます。そこを塗れば、さらにその隣が気になる。こうして「少しだけ」は、あっという間に全面塗装へと変わりました。
アリの侵入口をふさぐために始めたコーキングが、なぜベランダ塗装にまで発展したのか。自分でも、よくわかりません。
そこで夫が現れた
私は夢中になって、黙々とペンキを塗っていました。
そこへ夫がやってきました。そして、私を見ました。というより、刷毛を片手に、ベランダをかなり大胆に塗り進めている妻を見ました。
一瞬、空気が止まりました。実は以前、私が十分な下準備もせずに家の壁を塗り、散々な仕上がりにしてしまったことがあります。それ以来、夫にとって、「妻が刷毛を持っている」という光景は、決して安心できるものではないのです(苦笑)。
ですから、そのときの夫の表情は、ご想像に難くないでしょう。
「何してるの!?」。当然、叱られました。私としては、
「ちゃんと調べたし」「前より上手になってるし」「まだ途中だし」と言いたいところです。

でも、夫からすれば、そういう問題ではないのでしょう。問題は、私が何の相談もなく、本格的な塗装を始めてしまったことでした。
とはいえ、一度塗り始めたベランダを途中で放り出すわけにもいきません。結局、夫は途中から何も言わなくなりました。あきらめたのでしょう。
そして私は、それから約3週間、来る日も来る日も、少しずつベランダを塗り続け——。とうとう最後まで塗り切りました!
こうして、アリの侵入から始まったわが家の騒動は、なぜかベランダの全面塗装というところまでたどり着いたのです。
どうやら今回、本当に学ぶべきだったのは、「始める前に、少し立ち止まること」だったのかもしれません。
夫からすれば、もっと簡単です。「だから、始める前に相談して!」
きっと、それだけの話だったのでしょう(笑)。
ちなみに、ベランダを塗り終えた現在の私はというと……。
今度は、庭の花壇づくりにすっかり夢中になっています。夫に相談したかどうかは——どうぞ、ご想像にお任せします(笑)。
次回の投稿は、10月19日(月)夜7時を予定しています。
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