➤逆境のエンジェルとは
アメリカで暮らす筆者が、異文化のなかで感じる違和感、人とのすれ違い、老いや心の揺れ、ときには自分自身の失敗を通して、「人はどうすれば、思い通りにならない人生をよりよく生きられるのか」を考えます。仏教の教えも交えながら、日常のなかにそのヒントを探す連載です。
➤前回のあらすじ
アリ対策のために始めたコーキングが、なぜかベランダの全面塗装へ。「もっと」と「やってみたい」の違いを「欲」から語っています(第69話『アリ対策のはずが、ベランダ塗装まで――DIYから考える「欲」の正体』はこちらからご覧ください)。
聞こえなかったのに、うなずいた
会話の途中で、相手の言葉がふっと抜け落ちることがあります。
声は聞こえているのに、何を言ったのかが分からない。ほんの一部分だけ聞き取れないこともあれば、話の意味がまるごとつかめないこともあります。
そんなとき、本当なら「すみません。もう一度言ってください」と聞き返せばよいだけです。けれど私は、とっさに笑ったり、うなずいたりして、その場をやり過ごしてしまうことがあります。
相手が笑えば、私も少し遅れて笑う。しかし、何がおかしかったのかはわかっていません。話が先へ進むと、前後の言葉から意味を推測します。それでもわからないときは、わかったふりをしたまま、会話が終わるのを待ってしまいます。
どうして、たったひと言の「もう一度」が言えないのでしょう。
聞こえにくさに、第2言語が重なる
私にとって、英語は第2言語です。そのことも、状況をさらに難しくしています。
同じ英語でも、話す人によってアクセントやイントネーション、言いまわしは異なります。言葉を区切って話す人もいれば、いくつもの音がつながって聞こえる人もいます。話す速さが変わるだけでも、聞き取れる度合いは大きく変わります。
音として耳に届いていても、それがどの単語なのかわからないことがあります。単語は聞き取れても、なじみのない言いまわしであれば、意味を理解するまでに少し時間がかかります。そのあいだにも会話は先へ進んでいきます。
聞こえなかったのか。聞こえてはいたけれど、英語として理解できなかったのか。自分でも、すぐには判断できないことがあります。音量を上げてもらえばよいのか、ゆっくり話してもらえばよいのか、それとも別の言葉で言い換えてもらえばよいのか。何をお願いすればよいのかさえ、とっさにはわかりません。
一度聞き返して、それでも理解できなかったときは、さらに苦しくなります。もう一度聞くよりも、「わかりました」という顔をする方が、その場では楽に思えてしまうのです。

音を扱う仕事と、聞こえにくい私
私は片耳がほとんど聞こえません。もう一方の耳には補聴器をつけています。
しかも私は、音楽療法士として音を扱う仕事をしています。人の声を聴き、音楽を聴き、音を通して人と関わる仕事です。だからこそ、聞こえにくいことを知られるのが怖かったのかもしれません。
「音楽を仕事にしているのに、聞こえないの?」と思われるのではないか。仕事を任せても大丈夫なのかと疑われるのではないか。そんな言葉を実際に言われていなくても、私は心のなかで先まわりしていました。
聞き返すと、会話を止めてしまいます。何度も同じことを言わせれば、相手をいら立たせるかもしれません。まわりの人がすぐ理解しているなかで、自分だけが「聞こえません」「意味がわかりません」と言うのも勇気がいります。
私はずっと、聞き返さないのは相手への気遣いだと思おうとしていました。けれど、本当にそれだけだったのでしょうか。
私は、何を守ろうとしていたのだろう
考えてみると、私が守ろうとしていたのは、相手の気持ちだけではありませんでした。いえ、むしろそれは自分への言い訳。実際は、
「迷惑をかけない私」
「仕事ができる私」
「障がいがあっても、ほかの人と同じように振る舞える私」
そんな自分の姿を崩したくなかったのだと思います。
聞こえなかったと伝えることは、自分の弱い部分を相手の前にさらけ出すことでもあります。私は聞こえにくさを隠すことで、自分を守っていました。しかし同時に、会話のなかにいるように見せながら、自分を会話の外へ置いていたのです。
わかったふりをすれば、その場は止まりません。けれど、相手が本当に伝えたかったことを受け取ることはできません。そして相手もまた、私に言葉が届いていなかったことを知る機会を失います。
波風を立てないために選んだ沈黙が、かえって人との間に小さな壁をつくっていたことに、私は少しずつ気づいていきました。

「我」は、弱さのなかだけにあるのではない
仏教では、私にとらわれることを「我執(がしゅう)」といいます。これは、単なるわがままや自分勝手とは少し違うようです。自分はこういう人間だ、自分はこう見られたい、という思いにしがみつき、その姿を守ろうとする心が、我執のひとつなのだと思います。
私の場合、それは「人に迷惑をかけず、自分のことは自分でできる人でありたい」という姿でした。
自立しようとすること自体は、悪いことではありません。障がいがあっても、自分でできることを増やそうと努力することは、私を支えてきました。けれど、その思いが強くなりすぎると、人の助けを受けることまで拒むようになります。
「できる私」にしがみつくほど、「できない私」を見せることが怖くなる。聞こえなかったという小さな事実さえ、認めにくくなってしまいます。
私を苦しめていたのは、聞こえにくさだけではなかったのです。聞こえにくい自分を、そのまま人の前に出せないことが、苦しみを大きくしていました。
仏教を学んだからといって、長年身についた反応が、すぐになくなるわけではありません。けれど、以前なら何となくやり過ごしていた自分の行動に、「私はいま、何を守ろうとしているのだろう」と気づけるようになりました。
迷わなくなったのではなく、迷っている自分に気づき、別の行動を選び直そうとするようになったのです。
聞き返すことは、会話を壊すことではない
最近は、聞き取れなかったときに、できるだけ「もう一度お願いします」と伝えるようにしています。必要なときには、聞こえやすい側から話してもらいます。
それでも、いつも自然に言えるわけではありません。忙しそうな相手を前にすると、いまでもためらい、言えないこともあります。何度も聞き返したあとには、申し訳ない気持ちになることもあります。
これまでさまざまな経験をしてきたつもりでも、私はまだ、こんなひと言を口にすることをためらっています。けれど、経験とは、迷わなくなることではなく、迷いのなかで、自分が何を恐れているのかに少しずつ気づいていくことなのかもしれません。
「もう一度言ってください」は、相手の言葉をわからないまま終わらせず、相手の言葉をきちんと受け取りたいと伝える言葉でもあります。
そして、助けを求めることは、できない自分を認めて降参することでもありません。人は誰でも、誰かに補ってもらいながら生きています。その方法が、私の場合は少し見えやすいだけなのです。

わかったふりをして笑うより、「ごめんなさい。聞き取れませんでした」と伝える。その小さな正直さによって、私はようやく相手との会話に戻ることができます。
聞こえないことを、すぐに変えることはできません。けれど、聞こえない自分を隠し続けるかどうかは、少しずつ変えていける。
次に言葉を聞き逃したとき、私はまた迷うでしょう。それでも、そのたびに問い直したいと思います。
私はいま、何を守ろうとしているのだろう、と。
次回の投稿は、11月16日(月)夜7時を予定しています。
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