逆境のエンジェル

逆境のエンジェル(第25話) アメリカの医療差別とストレス

逆境のエンジェルとは

「逆境のエンジェル」とは、アメリカで生活する著者が、自らの人生をふり返り、いじめや身体障がい、音楽への情熱、音楽療法士としての歩み、異文化での生活、異文化間結婚、人種差別など、さまざまな体験・挑戦を通じて得た気づきと学び、成長をつづった物語です。

前回のあらすじ

 アメリカの高額で複雑な保険医療制度の内容と、医療現場で経験する差別の実態を語っています。(第24話『アメリカの医療保険制度と差別』はこちらからご覧ください)

患者をゴミのように捨て去る現実

 「患者ダンピング(patient dumping)」という言葉をご存知でしょうか。

 アメリカにおいて長年の問題である患者ダンピング。日本語に訳すと「患者の放棄」。「dumping」の「dump」はダンプカーのことで、まるで砂利やゴミのように患者を捨てる、という意味から名付けられたといいます。

 事実、アメリカでは病院や医療施設が、無保険の患者、治療費を支払えない患者に、適切な治療を施さず退院させたり、他の施設に転送したり、挙げ句の果てには道端に置き去りにする、というケースが数多く報告されています。

 他の施設に転送といっても、実際には他の非専門施設などに放置されることが多いのが実情。いずれにせよ、患者は必要な医療やサポートを受けられず、社会に放り出されることになり、その結果、健康状態が悪化し、場合によっては死に至ることもあります。

患者ダンピングがなくならない理由とは?

 このような事態への対応策として、アメリカでは1986年、緊急医療治療および労働法(EMTALA)が制定されました。これは患者の放棄を防止するための法律で、病院が緊急医療の必要があるすべての患者に対し、その支払い能力にかかわらず、医療のスクリーニング(検査)と、必要に応じた治療を提供することを義務づけています。

 しかし、このような法律があっても、患者ダンピングは依然として存在しています。

 現に、私たちが南カリフォルニアに住んでいたとき、夫が患者ダンピングの現場に遭遇したことがありました。ある有名チェーンの飲食店の前に、車椅子に乗ったまま途方にくれていた若い白人男性。夫が話を聞いてみると、医療保険がないために病院から放り出されたとのこと。

 男性が足にかけたシーツをめくって見せると、素人目にも切断しなければ助からないと思うほど、その足は色が変わり壊死(えし)している状態だったそう。夫はタクシーを呼ぼうとしましたが、信頼できる家族や友人がいないから、世話になりたくないといわれ断念。

 さすがに医療費を肩代わりする金銭的余裕はないので、夫はいくらかの現金と飲み水を渡し、その場を立ち去りましたが、少し離れたところにもうひとり、やはり置き去りにされた人がいたといいます。

 彼らのその後の行方はわかりません。

 私がときどき週末に勤務する地元の精神病院でも、同じようなことが起きます。緊急で入院してきた患者は、精神状態が決して良好といえないにもかかわらず、入院期間は平均1〜3日ほど。

 同じ患者がくり返し運ばれてくることも少なくありません。患者のなかには日本人や日系人もいます。多くの患者は経済的に困窮しているため、入院してもすぐに退院しなければならず、患者の抱える問題の解決には少しもなっていないのが現状です。

 こうした問題の根本には、医療システムの不平等、医療保険の不足、社会的サポートシステムの欠如などがありますが、医療機関の財政的圧力や資源不足も大きな原因となっています。無保険の患者が医療を受ける手段として、ER(緊急医療)を利用するため、貧困層や高齢者で病院側がパンク状態に。医療従事者不足も深刻で、その結果、患者の受け入れを拒否したり、患者放棄に至ってしまう現実もあるようです。

黒人の医療不信の原因となった“闇の歴史”

 患者ダンピングに加え、ある理由から、医療に対する不信感を抱く黒人も数多くいます。

 コロナワクチンが完成目前という時期、黒人の間からワクチンに対して懐疑的な意見が多く聞かれ、打たないつもりと答えた人が、全体の60%近くに上ることがニュースになっていました。新型コロナウイルスによる黒人層の重篤化や死亡者数は、白人のおよそ2倍であるにもかかわらず。

 その原因は、黒人を人体実験に使った多くの歴史があるからです。

 なかでも1930〜70年代にかけて行われた、「タスキギー梅毒実験」がよく知られています。これは米公衆衛生当局が、アラバマ州の黒人男性600人を対象に行った人体実験で、目的は梅毒の症状の進行を追跡・観察することでした。

 この実験は、被験者にその事実を隠して行われ、治療も意図的に遅らせていたようです。その結果、多くの死者を出してしまったのですが、1972年に世間に知れわたり、社会問題となるまで、この実験は継続して行われました。

 もうひとつは、ミシシッピー盲学校で行われたとされる実験。1950年代に黒人の子どもたちを対象にしたこの薬剤テストは、参加する子どもたちやその保護者から、十分な同意を得ることなく、また彼らに適切な情報を提供せずに実施されたといいます。

 この実験に関する詳細な記録や公式文書は、一般に公開されていないため、実施範囲、目的、結果について具体的なことはわかりませんが、いずれにせよ倫理的基準に欠けており、特に少数民族の子どもたちを不当に利用したことは事実です。

 こうした歴史的背景から、黒人の医療不信は根強く、私の夫も長い間、コロナワクチンの接種をためらっていました。

 ワクチンだけでなく、体調が悪いときでも病院にはほとんど行かないため、私の心配が高じてしまい、それが口論の原因になることもしばしばです。しかし、不平等な医療ケアはいまも存在するのですから、それも致し方ないことかもしれません。

 同僚の黒人女性は、急病のため入院することになったとき、彼女の夫や家族が交代で病室に泊まりこんだと教えてくれました。これもやはり、医療不信によるもののようです。

お金があっても医療を受けられないなんて…

 医療の現場でも存在する人種差別は、健康に多大な被害を与えています。1999年、米国医学研究所の委員会では、黒人やその他の少数民族が受ける医療の質が、白人と比べて劣ることを、科学的に根拠に基づいて指摘しました。

 この問題は、基本的な治療から高度な技術を要するものまで、幅広い医療サービスに及んでいます。

 それから20年以上経った現在も、私自身の経験や、夫の受けた医療処置を見る限り、あまり大きな変化があるように感じられません。

 医療保険に入っていても、たいていの国では、よりよい医療を受けようとすれば、ある程度まとまったお金が必要でしょう。しかしアメリカにおいては、仮にお金を持っていても、人種によっては適切な医療が受けられないのです。

 この現状を目の当たりにすると、アメリカで年老いていくことに不安を感じ、定年になったら自国へ帰るという移民(日本人を含め)が多いことに納得がいきます。

 だからこそ、医療を受けられることを、当たり前と思ってはいけないと感じています。この恩恵は、多くの人々の犠牲の上に成り立っている。まさに「有り難い(有ることが難し)」ことなのだと痛感しています。

 次回は、医療にみる差別、特に黒人女性の産後死亡率の実態と、組織的人種差別の現状について語っていきます。

第26話はこちら

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ABOUT ME
エンジェル 恵津子
東京都出身。音大卒業後イギリスに渡り、現在はアメリカのカリフォルニア州立病院で音楽療法士として勤務。和太鼓を用いたセラピーは職員、患者共に好評。厳しい環境下で自分に何ができるのか模索しながら、慈悲深く知恵のある人を目指して邁進中。 歌、折り紙、スヌーピーとスイーツが大好き。
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