➤逆境のエンジェルとは
「逆境のエンジェル」とは、アメリカで生活する著者が、自らの人生をふり返り、いじめや身体障がい、音楽への情熱、音楽療法士としての歩み、異文化での生活、異文化間結婚、人種差別など、さまざまな体験・挑戦を通じて得た気づきと学び、成長をつづった物語です。
➤前回のあらすじ
アメリカのあちこちで見受けられる日本文化の影響と、現在の職場で行っている和太鼓グループの活動について語っています。(第22話『アメリカに息づく日本文化』はこちらからご覧ください)
本当は何もわかっていなかった
さて、今回はベイエリアに越してきた時期に戻って話を進めていきたいと思います。
ベイエリアに越してから、私は夫を通して数々の問題に直面しました。これまでの物語で、私は黒人への人種差別について書いてきましたが、職場などでの経験や夫の話を通じ、こうした問題について、ある程度知っているつもりになっていました。
私はテレビのニュースで、警察官が黒人の少年を射殺したり、黒人やラテン系の人に暴行を加えたりするのを見て、いつも心を痛めていました。勤務先で遭遇する、病院の警察官や刑務所の監視官が患者や受刑者に暴力を振るう様子にも、いつも許しがたい思いを抱いていました。
しかし、ある事件を通して、実際は何も知らなかったことを思い知らされました。黒人男性としてこの国で生きていくことの大変さを、あのできごとを経験するまでは、ほとんど理解していなかったのです。
トランプ大統領の当選で見えたアメリカの本性
私が結婚生活のなかで、初めて人種差別による命の危険を感じたのは、2016年にドナルド・トランプ氏が大統領に当選した年のことでした。彼が大統領に就任して以来、人種差別や警察官の黒人に対する暴力行為が、前面に表れるようになったのです。
それはまるで、オバマ政権下でタブー視されていた問題に対し、ゴーサインが出され、いままで抑えられていた不満が一気に噴き出したかのようでした。この国の本性を見せられた、そんな感覚を覚えました。
夫はよく私に、目を開いてこの国に何が起こっているか、観察することの大切さを説き、私の無知さを指摘していました。そのため、私はことのほか人種差別について敏感になっており、意識を持ってこれら問題に向き合ってきました。
しかし、心のどこかで「ここは進歩的なカリフォルニア州で、夫は知的で教養があり、常識と良識がある人だから大丈夫」と、どこか他人ごとのように思っていたようです。
高速道路で体験した恐怖
ある年の暮れ、帰宅途中の夫が高速道路で警察官に車を停められ、職務質問を受けたことで、私は目を覚まされました。
当時、夫は安価だった電気自動車に乗って仕事に通っていました。カリフォルニア州では電気自動車の優待特典として、カープール車線(※)を単独でも走行できる権利がありました。
夫はその道路を2年以上、毎日走行していましたが、その日、交通ルール違反で初めて停められてしまったのです。理由は、カープール車線を単独運転しているからとのこと。夫は、自分が運転しているのは電気自動車であることや、優待ルールを説明したといいます。
警察官は車の後ろに回って、排気ガスを出すパイプがないことを確認。その後、夫は解放されましたが、その間にも車のなかを調べたりと、逮捕理由を見つけようとしていることは明らかだったそうです。ルールを知らないわけがないので、夫の答え方によっては切符を切られていたことでしょう。
帰ってきた夫のいらだちとやり切れなさの入り混じった顔は、いまでも忘れることができません。
若かりし頃、従兄弟と車に乗っているときにも停められたことがあり、警察官に「なぜ停められたか知っているか」と聞かれ、そのとき夫は「黒人の男2人が車に乗っているからでしょう」と答えたのだとか。警官は何もいえず、そのまま解放されたようですが、若気の至りで思わず口に出た言葉とはいえ、よく無事ですんだと思います。
※ 高速道路で特定の車両や、特定の人数が乗っている車両のみが通行できる優先車線
何が起こるかわからない、命がけの覚悟
交通違反をしていない夫が停められる理由は、ただ「電気自動車を運転する黒人の男」というだけでした。これが、ニュースで見たり聞いたりしていた、無実の黒人男性が警察官から嫌がらせを受け、暴行を加えられたり、ひいては射殺されてしまうことにつながるのだと、そのとき初めて、その現実を実感として理解できました。
黒人男性として生きる…、それはまさに命がけのことだったのです。
このようなことはいままでもありましたが、トランプ氏が大統領になってから、アメリカでは日常的に起きるようになったのは事実です。リーダーが変わればその組織図は変わる。私は初めて、アメリカでの生活に恐怖を覚えるようになりました。
以来、毎朝夫が仕事に出かけて帰ってくるまで、心配が募るようになりました。全世界を震撼させたコロナ禍も、在宅勤務により夫が自宅にいてくれることで、生命の危機から遠ざかっていると安堵したほどです。
夫はいつも、「自分の身に何が起こるかわからないし、自分の身を守るのは自分しかいない」といいます。
黒人男性として生きるのは、それほどに覚悟がいるものであり、同時に家族も、つねに行き場のない不安にさらされ生きることを強いられます。特に黒人の息子を持つ親の気持ちはどれほどのものなのか…。考えただけでたまらない気持ちになります。
たとえ小さくても、できることがある
つい先日、人種差別の緩和を検討する研修会に参加しました。その際に出された研究結果は、「組織のなかで一人ひとりが学び、意識を変えることができても、組織のトップの言動が変わらなければ、現実は何も変わらない」というものでした。
正直、その内容にはショックを受けました。一人ひとりの意識の変化など微々たるものであり、変革においては皆無に等しい…という研究結果。人種差別が簡単に緩和できないことは理解していますが、こうもはっきりいわれると、やはりちょっと凹みます。
今年の11月、アメリカで大統領選が開かれます。誰がリーダーになるかで、私たちの生活が一変してしまう可能性があるだけに、大統領選は国民にとって大きな関心事です。
たとえば、バイデン政権下のいまは、人種差別問題を大ぴらに話すことができますが、共和党が権力を持った際には、自由な言動が制限されることだってあり得ます。そして、そのような状況で犠牲になるのは、いつも有色人種です。
実際、私の職場でもこういうことがありました。先日(6月19日)、職場で患者と祝ったJuneteenth(ジューンティーンス)。これはアフリカ系アメリカ人の奴隷解放を記念する日で、バイデン政権下では正式に連邦の祝日となりました。
しかし、保守派や前大統領の支持者のなかには、これに反対する人が多いのも事実。なぜならそれは、奴隷制とその残虐の歴史を認める、つまり白人にとっては汚名を意味することだからです。
私の職場にも反対者はいて、患者と祝っていると「でっち上げの祝日だ」といってきた職員がいました。
そのとき、私ともうひとりの同僚は、にこやかに相手を見つめ、何もいわずにお祝いのために購入したクッキーをおすそ分けしました。悔しさや悲しい気持ちもありましたが、大切なのは、その祝日を患者の前できちんと祝うこと。そして私たちの意思を示すことでした。
私たち一般人が、一国の大統領に直接会って話をする機会はまずありません。しかし、その党首の考え方に影響を受けている人たちとは、職場で一緒だったり、隣人である可能性は高いです。
研修会で出された報告結果のように、確かに一人ひとりの力はあまりにも非力です。それでも蟻(あり)の歩みのように、地道に根気よく働きかけていく。そうすれば、もしかしたら隣人の心に、小さな小さな風穴を開けることができるかもしれません。
そのためにも、現実を見誤ってはいけない。八正道のひとつ「正見」の大切さを、日々実感する毎日です。
次回は、アメリカの医療保険から見る差別の問題について物語を進めていきます。
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Angel’s column 【知ってほしい! アメリカの社会的背景 その⑫】
アメリカの大統領選挙は「一般選挙」と「選挙人制度」の2段階から成り立っています。一般選挙では、各州の有権者(事前登録した18歳以上のアメリカ国民)が投票し、その州で推したい候補者を決めます。そして、後日行われる選挙人投票で、選挙人が地域を代表して投票し、選挙人の270票以上を獲得した候補者が大統領に選出されます。
なぜこんなにも複雑な仕組みなのでしょうか。それは、建国当時のアメリカでは読み書きができない人が多く、まともに大統領を選べないとの独断と偏見があったから。それが一般大衆の代表・選挙人を立てた始まりとされます。
538人いる選挙人は、アメリカ全50州と首都ワシントンD.C.の計51地域に振り分けられます。選挙人が一番多いのはカリフォルニア州の55人(2024年の大統領選では54人に減少)。ただ、必ずしも人口比で割り当てられているわけではありません。もしそうなれば、人口の多い地域の利益が優先され、人口の少ない州が不利になるからです。権力を分散し、小さな州も大きな州と同じく選挙に影響を与えられるようにする。選挙人制度が廃止されないのは、そうした理由もあるようです。
今年は4年ごとに行われる大統領選挙の年。11月の第1火曜日に一般選挙が行われ、12月の選挙人投票を経た上で、翌年1月20日、次期大統領が誕生します。いったい誰が大統領に選ばれるのか。それは人命にも関わる問題もはらんでいるため、国民は厳しいまなざしを向けながら、その動向を見守る必要があります。
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