「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」とは、私の敬愛する、大愚良寛(たいぐりょうかん)和尚の辞世の句です。
良寛和尚は、江戸時代に生きた禅僧で、名誉にも金品にもとらわれず、自由に、無心に生きた、人間味溢れるお坊さんです。
今でも「良寛さん」と親しみを込めて呼ばれ、語り継がれています。良寛さんについての逸話は多いのですが、中でも、「子どもたちとかくれんぼをしていた時に、子どもたちが日が暮れて帰ってしまったにもかかわらず、ずっと隠れ続けていた」という話や、「夜中に泥棒が布団を盗みに来た際には、身体をずらして布団を盗みやすくしてやった」という話は、良寛さんの人柄をよく表しているエピソードです。
良寛さんは、江戸時代後期、宝暦8年(1758)、越後国出雲崎(現在の新潟県出雲崎町)の名主、橘屋の長男として生まれました。名主である父の跡を継ぐことを期待されますが、十八の時に突如出家して、仏門に身を投じます。
ちょうどその年は、天災、凶作、悪疫によって多数の餓死者が出て、全国各地では米騒動が頻発するなどして、人々は大変苦しんでいました。十七、十八歳という多感な時期に、名主見習いとして村人の争いを調停したり、盗人の処刑に立ち会わなければならなかった良寛さんにとって、人生や疑問や憂いが大きくなっていったことは、想像に難しくありません。
二十二歳のときには、備中国(現在の岡山県)へと向かい、円通寺に入って修行。三十三歳で、師から禅僧として認められたのでした。その後、各地へ行脚の旅に出た良寛さんでしたが、寛政7年(1795)名主であった父の自殺を聞いて越後へ戻ります。
以後、その生涯のほとんどを越後の農村で過ごされました。良寛さんは、曹洞宗の禅僧でありましたが、村人に請われれば、南無阿弥陀仏を揮毫(きごう:文字や絵を描くこと)するなど、宗派にこだわらない懐の深い人でした。良寛さんにとって宗派の違いは問題ではありませんでした。仏教とは、自身が悟りに至る道であり、僧としての自分の役割は、庶民を仏門に導くことだと、考えておられたのです。
晩年の良寛さんは、越後の国上山(くがみやま)中腹に小さな庵を構え、托鉢によって日々の食を得て、坐禅をしたり、時々に感じたことを詩や和歌に詠んだり、子どもたちと遊ぶ毎日を過ごされたといいます。
良寛さんが老いて病に伏したとき、交流のあった若き尼僧・貞心尼が、良寛さんのもとに通って世話をしました。そして、最期を看取った貞心尼に寄せた辞世の句(死に際して残した詩句)が、「裏を見せ 表を見せて 散る紅葉」です。
その心は、「おまえにだけは、裏も表もすべて見せた。そして私は安心して散っていく」七十四歳。どこまでも飾らない、大愚良寛和尚の最期でした。毎年秋の紅葉シーズンになると、私は良寛さんを想います。
禅とは、とらわれのない心のこと。飾らず、おごらず、とらわれず、自由に、無心に、大胆に、子どものように、明るく生きた江戸の禅僧、良寛さん。いつも、いつまでも、そのようにありたい。そう願う、秋です。
あなたが、幸せでありますように。あなたの大切な人が、幸せでありますように。生きとしいけるものが、幸福に生きられますように。
合掌 大愚元勝