➤逆境のエンジェルとは
アメリカで暮らす筆者が、いじめ、身体障がい、音楽への情熱、異文化での生活、人種差別、仏教との出会いを通じて成長していく物語。個人的な体験を超え、社会の不平等や共生の課題にも鋭く斬り込み、逆境のなかで希望を見出す力を描きます。
➤前回のあらすじ
ヒップホップ音楽の歴史とそれを使った音楽療法の実例を紹介しています。(第54話『叫びはやがて祈りになるーヒップホップが運んできた希望の声』はこちらからご覧ください。
人生で交差する人の数は何人?
現在の世界の人口は約80億人です。それに対して、個人差はあるものの、人生で何らかの接点を持つ人の数は、平均で3万人ほどと書かれた記事を見つけました。
この数字を見て、私は、多いようで、意外と少ないのかなと思いました。なぜなら、地理的な条件や行動範囲によるでしょうけれど、道で出会っただけの人も入れれば、もっと多いように思うからです。
だとしても、3万人というのは、決して少ない数ではありません。そう考えると、いま目の前にいる人と出会えたことは、確率的に決して高いわけではなく、さらにその人と親しくなることは、とんでもなく奇跡的なことだと気づきます。
だから、仏教ではそれを「ご縁」というのですね。
ほんの一瞬の交差であっても、自分の人生に何かしらの痕跡(こんせき)を残し合いながら、私たちは生きている。さらに、その一人ひとりは、似ている部分があっても、まったく同じ人生を辿る人は存在しない。
そう、その交差したすべての人に、それぞれかけがえのない物語があるのです。
そこに思いを巡らせてみると、苦手だな、関わりたくないなと思っていた人にも、ほんの少し寛容な気持ちが芽生えてくるから不思議です。
あなたとこの連載で出会ったことも、三万分の一の奇跡。この小さな小さな物語は、日々の心の揺れや、経験のなかから感じたことを綴っていますが、読んでくださった方の心のどこかに、そっとふれるようなものがあれば、それは何よりありがたいことだと思っています。
先日、編集部に一通のお便りが届きました。そこには、この連載への感想と、ご自身の人生の歩み、少しずつ変わっていく日常の風景が綴られていました。
小さな気づきと向き合いながら
「えつこさんの文章の、読み手の側に立った分かりやすい表現に心打たれている者のひとりです」
そんなあたたかな言葉から始まるお便り。私はふと姿勢を正していました。
これまで書いてきた言葉たちが、誰かに届いていたことのうれしさとともに、申し訳ないような、気恥ずかしいような、そんな思いも交差しました。
お便りをくださった方は、この一年半の間に、大きな節目をいくつも経験されたそうです。お父さまとの別れ、義父さまのご葬儀…。人生の諸行無常というものが、否応なく迫ってくるような時間だったのだと思います。
けれど、そうしたなかで、大愚和尚の言葉や仏教との出会いが、心の支えになっていたと記されていました。
「偏った見方の『莫妄想(まくもうぞう)』や、相手の立場に立つことで、自分が勘違いしていたこと、また知識不足にも気がつきました」
「莫妄想」とは、思い込みや先入観にとらわれず、いまこの瞬間をありのままに受け止めることを説いた禅語です。お便りにあったこの言葉を目にして、私は過去のこんな経験を思い出しました。
以前、職場の同僚に、ある患者のことで質問をしたことがありました。すると彼女から、大きな声で、まるで叱り飛ばすように「なんで私に聞くわけ?」という言葉を浴びせられたのです。
そういわれた私は、ついカッとなって「さっき、その患者さんの名前を口にしていたから、知っているのかと思っただけ!」と、同じような調子で返してしまいました。
そのとき私が思っていたことは、「私のことを嫌いならそれでもいいけど、態度ぐらいなんとかしろ!」というものでした。
しかし、後でわかったのは、人不足で早朝勤務と夜勤が連日続き、さらに難しい患者の対応にも手こずっていて、そのとき彼女はイライラの極限状態にあったということ。
人は誰もが、自分の立場からしか物事を見られない瞬間が多々あります。そして無意識のうちに、相手を責めたり、自分を追い込んだりしてしまう。
でも、ふとした拍子に「もしかしたら、自分の思い込みだったかもしれない」と気づくことができたなら、その一歩が心のあり方を少しずつ変えていくのかもしれません。
これは、大愚和尚がたびたびお話しされる「内観すること」とも通じているように思います。
他人にどうこうする前に、自分の内側を静かに見つめてみる。そこに気づきが生まれると、不思議と景色がやわらかく見えてくることがあります。
私も、自分の見方に固執しがちなことがあるので、「莫妄想」の言葉にハッとさせられ、身が引き締まる思いがしました。

日常のなかの修行
お便りには、暮らしのなかの一コマも綴られていました。
亡きお父さまが生前植えられた藤の花のつるが、年月を経て庭いっぱいに広がってしまったそうです。要介護のお母さまのために、弟さんと力を合わせて剪定(せんてい)を始めたものの、その途中で足を痛めてしまったのだとか。
「“おっちょこちょい”の性格を改善したく、毎日手を合わせています」
手を合わせておられるのは、福厳寺で求められたという達磨さんの手拭い。そこには、福厳寺の先代である大愚和尚のお父さまの描かれた「看脚下」(※)の文字が記されています。
「看却下」の文字の下で、笑っている達磨さん。このお顔を見ていると、ほがらかな気分になってきます。その達磨さんの手拭いに手を合わせているお便りの主のお姿を想像して、思わず笑みがこぼれました。
完璧ではない自分に向き合い、笑いながら手を合わせる。その姿勢に、やさしい強さのようなものを感じました。
日々の暮らしのなかで、「どうしたらもっとよくなれるかな」と思う。それはそれだけで、すでにひとつの修行のようなものかもしれません。
仏教でいう「精進」とは、決して完璧を目指すことではなく、「今日を少しでもていねいに生きようとすること」であり、その積み重ねが、やがて人生の深みに変わっていくのだと、私はそんなふうに感じています。
※ 「脚元(あしもと)を見よ」という禅語

三年越しの扉
「三年におよぶ就活面接の末、週一回のバイトの職に就けることになりました」
この言葉に、胸がじんわりと温かくなりました。
三年という月日のなかには、きっとさまざまな想いがあったことと思います。不安や孤独、自分を信じられなくなった日もあったかもしれません。
でも、その時間のすべてが、「ひとつの扉」を開く力になっていたのではないかと感じました。
「ふだんの居場所が、もしかすると確保できるかもしれません」
そう書かれていたのは、障がい者手帳の交付に向けて相談を進めていることについてでした。
ご自身の状況について、お便りにはくわしく書かれていません。でも、そこに至るのは簡単ではなかったことが、行間から読み取ることができました。
「不完全な自分をありのまま受け入れる」。これは、なかなかに勇気がいることだと思います。
ただ、肩に力が入るほどがんばり過ぎるのは、ときとして、周囲を緊張させてしまう場合もあります。
誰かに頼ること、制度に助けてもらうこと。それは弱さでも甘えでもなく、「自分を大切にする」という選択のひとつだと思います。
そして、そんな自分が自身にやさしくなれたとき、まわりの人にも、やさしさが自然とにじんでいく──そんな気がしています。
他人の支援を受け入れる、それは自分が楽になるだけでなく、周りをホッとさせるものかもしれない。このお便りは、そんなことを私自身にも語りかけてくれているようでした。

世界の色が変わるとき
「人はひとりでは生きられないと再確認し、それまでとは世界がまったく違って見える今日このごろです」
とても重みのある言葉です。
私自身、この連載を通して、「自分の書くものが、誰かの支えになっていたかもしれない」と感じた出来事がありました。
それが、今回ご紹介しているお便りであり、連載に直接残してくださる方々のコメントです。
自分の経験や、心の動きを綴っているだけの連載。それが、誰かの気持ちに寄り添う役割をしていたのだと思うと、胸が熱くなりました。
同時に、そのお便りやコメントを受け取った瞬間、今度は私自身が支えられていることに気づかされました。
「目を通してくださっている方がいる、誰かに届いている」。そう思えることが、次の執筆へのエネルギーにもなっているのです。
私たちは誰しも、たくさんの支えのなかで生きています。そして自分もまた、気づかぬうちに誰かの心の支えになっているのかもしれない…。そんなふうに感じると、不思議と、世界の輪郭がやわらかく変わるように思います。
あたり前のように見えていた景色が、ある日ふと違って見える。それは、自分の心が少しほぐれた証なのかもしれません。
人はひとりでは生きていけない。それは決して弱さではなく、人として自然な在り方なのだと、改めて認識させられました。
どんな出会いも、どんなすれ違いも、ほんの少しの支え合いの種になる──。
読み返すたびに、どこか独りよがりになっている自分を、優しく戒めてくれたお便り。今回は、そこから得た、たくさんの気づきや思いやりの灯りに照らされながら、筆を取りました。この灯りが、読者の方の心にも届くことを、心より願いながら。
ご就職おめでとうございます。そして、素敵なお便りをありがとうございました。
次回は、「心理的トラウマ」をテーマに、小さなきっかけから生まれるトラウマから、時代を超えて受け継がれるトラウマまで、語っていきたいと思います。(更新は9月22日夜7時)
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