➤逆境のエンジェルとは
「逆境のエンジェル」とは、アメリカで生活する著者が、自らの人生をふり返り、いじめや身体障がい、音楽への情熱、音楽療法士としての歩み、異文化での生活、異文化間結婚、人種差別など、さまざまな体験・挑戦を通じて得た気づきと学び、成長をつづった物語です。
➤前回のあらすじ
折り紙や音楽を活用したセッションを通して、他者とのつながりを深め、理解と受容を促す試みについてお話ししています。(第37話「『心に種をまく』音楽と折り紙がつなぐ気づきの瞬間」はこちらからご覧ください。
2019年の冬から始まった、新型コロナウイルスパンデミック。あのロックダウンの時期は、多くの方の記憶に、いまも鮮明に残っていることでしょう。
私にとっても規制緩和までの2年半は、その後の人生に大きく影響するような、挑戦と成長の時間であったと感じています。
今日から2回にわたって、その時期を振り返ってみたいと思います。
空港での別れ、そして突然の変化
2020年2月のある日、サンフランシスコ空港まで母を見送りに行った際、目にしたのは、普段なら活気にあふれているはずの空港の、静まりかえっている光景でした。
前年の暮れに父が他界し、以来、母は深い悲しみのなかにいました。
そんな母の少しでも気分転換になるようにと、私は四十九日の法要後のしばらくの間、夫と3人でアメリカで過ごす時間をつくりました。
しかし、世界があんなにも早く変わるとは…。
あの日々、誰もが恐怖のなかで、身動きが取れなくなったかのようでした。
世界中の人々が家に閉じこもり、仕事を失い、未来への不安に押しつぶされそうになっていたのです。
ひとり残された母とは、2年以上の間、ビデオ電話だけが唯一のコミュニケーション手段となりました。
さらに医療現場の一員として、これまで経験したことのない、大きな問題に直面することとなりました。
見えない敵との闘い〜 コロナ隔離病棟勤務
通常は混雑する通勤路も、その時期はほとんど車がなく、清々しいほどに澄んだ空気が感じられました。
それはうれしい反面、事態の深刻さを物語っているような、独特な風景でした。
パンデミックが加速し始めると、私が勤務する病院でも、コロナウイルス感染患者のための隔離病棟が、ひとつ設けられることになりました。
そして予想通り、私の勤める病棟が、その隔離病棟に指定されました。
移動届けを出す職員が続出し、病院内にはしばらく混乱がありましたが、私はそのまま居残る決意をしました。
防護具を着用し、息苦しさを感じながらも、日々変わる感染状況に対応する…。それは、心身がともにすり減るような毎日でした。
当時は、仕事内容の大変さ以上に、未知のウイルスへの恐怖が大きく、特にワクチンがまだなかったため、家にウイルスを持ち込まないようにと必死でした。
自宅に帰る際は、まずガレージで服を脱ぎ、アルコールで消毒し、直接風呂場に向かう…など、夫に感染させないようにと細心の注意を払いました。
また、万一に備えてホテルに泊まることも考え、常に着替えを車に準備していました。
しかし、隔離病棟での勤務は、想像を超えるストレスがありました。
一度病棟に入ると、病棟と自分のオフィス以外は、ほとんど移動せずに過ごす日々が続きました。
使い捨てガウン、帽子、N95マスク、そしてフェイスシールド…。これらを装着し続ける毎日は、ときには酸欠で倒れそうになるほどでした。
特に夏場、エアコンのない古い建物でこの重装備を身につけるのは、まるでサウナのなかにいるようでした。
「もしかしたら、私も…」という不安と恐怖
ある日、感染の疑いがあるのに、検査を拒否し、マスク着用も拒む患者が搬送されてきました。
精神科医や臨床心理士が説得を試みましたが、彼はますますいらだつばかりで、最終的に私に任されることになりました。
雑誌や折り紙を手渡すと、彼は少し落ち着きを取り戻しました。
それをきっかけに、検査を受けるよう促してみましたが、彼は首を横に振るばかり。
いらだつと手に負えなくなることがあると報告されていたので、もし感染していた場合、病棟中にウイルスをまき散らす危険性があります。
私は日々彼の部屋を訪れ、話をしたり、一緒に音楽を聴いたり歌ったりしました。
ときにはスナックを提供しながら、彼の機嫌を取りつつ、彼に課せられた隔離期間を過ごしました。
その間、やんわりと何度も勧めるものの、検査を受け入れることは決してなく、私も「もしかしたら」という不安を心の奥底に抱えながら、患者との時間を過ごしました。
私の勤務先でもリモートワークが導入されましたが、医療現場の性質上、通常通りの業務が求められるのは仕方ないことです。
いまとなっては笑い話ですが、当時は他の病棟に勤める同僚から、「どこの病棟に配属されているのか」と尋ねられ、隔離病棟だと答えると、すかさず距離を取られたり、マスクが正しく装着されているか確認されるなど、さまざまな反応がありました。
混乱を加速させた、ある人物の存在
コロナ禍がどんどん深刻化するにつれ、病院側も人材確保において、厳しい問題に直面していました。
特にコロナ隔離病棟においては、職員が辞めたり無断欠勤が増えることのないよう、食事の差し入れや、昼食時間を長く取る許可が出るなど、さまざまな対策が講じられました。
それでも、ウイルスに関する情報が政治的意図を絡めて混乱し、さまざまな情報が飛び交う状況は、医療施設で働く者にとっての大きな精神的負担となりました。
2020年は大統領選挙の年であったことも、この混乱に拍車がかかっていた一因でしょう。
皮肉なことに、この記事がみなさんに届く頃は、また大統領選が目前です。
当時、医療従事者の間でも、トランプ大統領を支持する職員には、かたくなにマスクの着用やワクチン接種を拒否する人がいました。
この期間、私が勤める病院や他の州立病院内でも、重篤な状態になったり、命を落とした人もいたため、大統領の発言や報道と、目の前の現実とのギャップに、なんともいえないやりきれなさを感じたものです。
コロナだけでなく、トランプ大統領とその支持者による圧力で、選挙後に暴動が起こるのではないかという不安を抱えていた人も多くいました。
私の知り合いのミュージシャンは、事前に投票を済ませてから、しばらくカナダなどに避難していました。
この時期、経済的に余裕がある人たちのなかには、国外に避難する人も少なくありませんでした。
「アジア人ヘイト」にさらされる現実
パンデミック期間中、未来への不安にいらだちを募らせ、攻撃的な態度を取る人が増えたことが印象的でした。
病棟勤務の看護師や医師たちは、神経質になり、病棟内にはいつもピリピリした空気が漂っていました。
街なかでも、スーパーマーケットでの客同士の衝突や従業員に対する暴力、さらには銃による事件の増加など、社会的な緊張が高まっていました。
特に、トランプ前大統領が新型コロナウイルスを、「中国からのウイルス」と呼んだことで、アジア人に対する差別や憎しみが助長されました。
ニュースなどで、サンフランシスコでアジア人が暴行を受けたり、日本人が襲われた事件などが報道されたほか、サンフランシスコの日本領事館からも、注意喚起のメールが届くなど、不穏な空気に包まれました。
私の夫も、私を心配して、すべての食料品の買い物を引き受けてくれました。
彼は、警備員に食ってかかる客や、暴力沙汰が起きそうな現場に遭遇したことが何度かあったといいます。
家ではこうして、夫が買い物をしてくれたため、私が出かける必要はありませんでした。
しかし、職場の患者のためのクリスマスプレゼントや、スナックの買い出しは避けられず、スーパーマーケットに行くこともありました。
人々の視線に覚える恐怖
職場のあるナパは、保守的な土地柄ということもあってか、アジア人の私が買い物をしていると、容赦ない視線を向けてくる人が一定数いました。
マスクをつけていても感じる、突き刺すような視線…。人々のストレスと不安の表れに、少なからず恐怖を覚えました。
運転して家に帰る途中でも、信号で停車した際、隣の車から冷やかされたり、写真を撮られたこともありました。
そんな厳しさに満ちた日々ながら、職場や家庭では、お互いに支え合い、力を合わせて乗り越えようとする気持ちが感じられた時期でもありました。
たとえば、同じ職場で働く、多くのアジア人たち。彼らも、病院という環境でのストレスに加え、たびたびニュースになる「アジア人ヘイト」に恐怖を覚えていました。
しかし、それには屈しない。その強さは、人々の強固な絆が支えているのだと感じることができ、私はどこか希望を見出すことができました。
それでもホリデーを楽しむ
一年の大きなイベントであるクリスマスがやってきました。
しかし、この時期、患者たちは家族との面会ができず、孤独感を募らせていました。
そんな彼らに少しでも元気になってもらおうと、私たちは買い出しに走りました。
隔離病棟では、例年のような大規模なピザパーティーを催すことはできませんが、少しでも楽しい気分を味わってもらえるようにと、クリスマスギフトやスナックをていねいに袋に詰め、一人ひとりに配りました。
配布する際には、感染リスクを最小限に抑えるため、できるだけ腕を伸ばして距離を取りながら手渡したり、「ハッピーホリデー! ギフトやスナックはドアの外に置いておくから、あとで取ってね!」と、声をかけながら渡しました。
この期間中、基本的に歌うことは禁止されていましたが、クリスマスソングを口ずさみながら、鈴を鳴らして病棟内の廊下を練り歩きました。そうして少しでも気分を盛り上げてもらおうとしたことが、なつかしく思い出されます。
未来への希望 〜 試練を越えて
パンデミックを経て、私たちは誰もが大きな試練を乗り越えてきたように思います。
医療現場での日々、そして差別や恐怖との戦い。それらの経験を通じて、普段は関わることのない人々との交流も生まれ、すべてが心の糧となりました。
いまでは、あの経験が私をさらに強くしてくれたと感じています。
まだコロナ禍の影響は残っていますが、あの時期に「支え合いの大切さ」「移りゆく状況に柔軟に対応することの大切さと尊さ」を学びました。
どんなに苦しい状況でも、必ず心に灯りをともしてくれる人がいる。
そして、その灯りは次の誰かにつながっていきます。
私たちに厳しい現実を突きつけた、新型コロナウイルス。そこで負った傷は決して小さいものではないけれど、その試練を経て、私たちは新たな希望を見つけたのではないか…と、いま、私はそう思うのです。
次回は、コロナ禍において病院を挙げて行ったプロジェクトや、コロナ禍だからこそ深く学べたことにについてお話しします。
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