こちらの記事は、佛心会会員の季刊誌である『慈光』の中の連載記事『カルチャーブリッジ』で掲載された内容をより詳しくお伝えするコーナーです。
慈光の記事のその先へ
先に慈光の季刊誌では、長年アメリカで活躍してこられた日系アメリカ人2世のドラマー、アキラ・タナさんをご紹介しました。
現在は、日本の童謡や歌謡曲をジャズとして奏でるグループ「OTONOWA」の中心メンバーとして活動されています。
私がインタビューをお願いしたきっかけは、コンサートで出会った懐かしい日本の旋律が、ジャズとして新たに息づく姿に深く心を動かされたことでした。
その後ご本人に直接お願いし、快くお引き受けいただいたのが今回の取材の始まりです。
慈光では、震災を契機に生まれたOTONOWAの歩みや、日米ふたつの文化の中で育まれた感覚、そして「信頼」の教えを軸にその人物像に迫りました。
本稿ではそれを受け、さらに一歩踏み込み、音の奥に流れる家族の歴史や沈黙、そして仏教的まなざしに支えられた生き方に光を当てていきます。
『どんぐりころころ』がジャズになるとき
OTONOWAの演奏を初めて聴いたときのことを、私はいまも鮮やかに思い出します。
日本の童謡や懐かしい旋律が、アメリカのジャズミュージシャンたちの即興のなかで、まったく新しい表情を持って奏でられるのです。
知っているはずのメロディーなのに、どこか遠くへ連れて行かれるようで、同時に、心の奥の幼い記憶が静かに揺り起こされるようでもありました。
なかでも忘れられないのが、『どんぐりころころ』です。
演奏会のなかでその旋律が流れた瞬間、私は思わず口ずさんでしまいました。
すると一緒に行った夫にそっと袖を引っ張られたのです。そんな私の様子を恥ずかしく思ったようです。
私もハッとして、恥ずかしくなりました。
けれども、それほどまでにその歌は自然に身体のなかに入っていて、気づかぬうちに声となってこぼれていたのです。
アキラさんにそのことを話すと、笑いながら、「そうですよね。子どもの歌ですからね」と応じてくださいました。
そして、「OTONOWAの音楽は、日本人なら多くの人がすぐにわかる曲を演奏しています。だからこそ、聴いた人のなかにある記憶とつながるんですよ」とも話されました。
慈光の記事でも書いたように、OTONOWAは、日本の童謡やポップスの旋律とアメリカンジャズを融合させ、人と人、文化と文化、そして震災復興への思いを音でつなぐために生まれました。
アキラさんは今回のインタビューで、その演奏のあり方について、こう語っています。
「互いの音をよく聴きながら、自然に音を重ねていくんです」
そしてさらに、こう続けられました。
「誰かひとりが、こうしなさい、ああしなさいと決めるわけではないんです。誰かが曲を持ってくると、みんなが自然に自分の音を持ち寄っていく。説明しすぎなくても、みんなが音楽をわかっているんです」
そこには、高度な音楽家としての技術と感性、単なるアレンジの妙を超えた、深い信頼関係があります。
相手の音に耳を澄まし、自分を押しつけすぎず、その場に生まれてくるものを受け取っていく。
その姿勢は、ジャズの即興性であると同時に、どこか仏教の「和」や「縁」の感覚にも通じているように思えました。
『念仏』という曲に込められたもの
今回のお話のなかで、とりわけ印象的だったのは、アキラさんが『念仏』という曲について語ってくださったことです。
アキラさんは、OTONOWAで『念仏』を録音し、アレンジされたことについて、こう話されました。
「それは、自分の人生や、自分がどう育てられたか、両親のことを表現したいという、かなりはっきりした思いがあったんです」
とても静かな口調でしたが、そのひとことには深い重みがありました。OTONOWAの音楽は、必ずしも宗教的な意図から始まったものではないそうです。
けれども『念仏』という曲には、ご自身の育ちや家族の背景が、特別なかたちで込められているのです。
実際、OTONOWAは、今年シアトル仏教会の125周年記念式典で演奏し、そのことにも触れながら、アキラさんは「それで125周年を記念して『念仏』の映像もつくったんです」と話してくださいました。
日本の歌や旋律をジャズにするというだけではなく、その音楽が仏教会という場にも自然に息づいていくことは、アキラさんご自身の歩みとも無関係ではないはずです。
※演奏は1’40から。このビデオは2024年のアメリカ仏教会の125周年を祝うために制作されたものです。
仏教の家に生まれて
アキラさんのご両親は、ともに北海道の出身です。特に母親は熱心な仏教徒の家系で、親族にもお坊さんが多く、仏教がごく自然に暮らしのなかに息づいている家族だったそうです。
父親もまた若い頃に寺に入り、その後アメリカへ渡りました。
そのようなお話を伺うと、アキラさんご自身も当然、僧侶の道へ進まれたのではないかと想像しがちですが、アキラさんは率直にこう話されました。
「正式に僧侶になりたいと思ったことはありませんでした」
けれども、そのすぐ後に、こんな言葉が続きます。
「でも、宗教的な家庭で育てば、その育ち方は人生に反映されるものだと思います」
この言葉は、とても深く胸に残りました。仏教を声高に語るのではなく、生きる姿勢として身についている。
人を簡単に裁かないこと。異なる背景を持つ人に対して想像力を持つこと。苦しみがある人生を、それでも引き受けていくこと。
そうしたものが、教義以前の「空気」として受け継がれていたのではないでしょうか。
アキラさんはまた、こうも語っていました。
「私たちの人生のなかには、ある種のスピリチュアリティがあると思います」
しかもそれは、意識して掲げるものではありません。
「いつもそれを考えて追い求めているわけではないんです。もし音楽にそれが表れているなら、そうなのでしょう。」
この控えめで誠実な語り口そのものに、私はかえって深いものを感じました。
アキラさんは、大学で音楽を学ばなければ宗教学を学ぼうと思ったと、インタビュー記事で語られていたことも思い出しました。

収容所の沈黙と、父の日記
ご家族の歴史には、日系人として避けて通れない、戦時中の強制収容所の体験があります。アキラさんご自身は戦後の生まれで、収容所を直接経験してはいません。
けれども、ご両親や兄たちはその時代を生きました。
父親が僧侶であったことから、日本のスパイ容疑もかけられ、父親だけ先に家族と別の収容所に送られたのだそうです。
ただ、「収容所でのことを、家族はあまり話さなかったんです」とアキラさんはいいます。
その沈黙には、言葉にしきれない痛みがあったのでしょう。だからこそ、後になって少しずつ知ることになったご家族の歴史は、より重い意味を持って立ち上がってきます。
アキラさんの父親は日記を残していて、日本で出版されたそうです。
「父が書いた日記を、母が書き起こして、日本で出版したんです。日本語で四巻あります」
『サンタフェー・ローズバーグ抑留所日記』と題した本は、英語にも翻訳されており、現在、日本語版は国会図書館のみで閲覧が可能となっています。

ここまでお話を伺ってきて感じるのは、音楽というかたちを通して現れているものの奥に、言葉にならなかった時間や、語られずに受け継がれてきたものが静かに息づいているということです。
OTONOWAの音は、ただ懐かしさを呼び起こすだけではなく、その背後にある家族の記憶や、歴史の重み、そして人が人を思うまなざしまでも含んで、私たちの心に届いているのかもしれません。
アキラさんの語りは終始穏やかで控えめでしたが、その一つひとつの言葉の奥には、音楽と人生が深く結びついた確かな実感が感じられました。
そしてそれは、「表現する」というよりも、「にじみ出てくる」もののようにも思えます。だからこそ、その音に触れたとき、私たちはどこかで自分自身の記憶や感情とも出会うのでしょう。
次回は、今回触れられた父親の日記『サンタフェー・ローズバーグ抑留所日記』を手がかりに、強制収容所での体験と、その沈黙のなかにあった思いについて追体験していきます。
語られなかった歴史が、どのようにして次の世代へと受け継がれ、そしてアキラさんの音楽へとつながっていったのか。その深い背景に、もう一歩踏み込んでいきたいと思います。
アキラ・タナ
アメリカ・カリフォルニア州サンノゼ生まれの日系アメリカ人ジャズドラマー。ハーバード大学で社会科学を学んだ後、ニューイングランド音楽院で音楽を修める。
ソニー・ロリンズ、アート・ファーマーら数多くの著名ミュージシャンと共演し、国際的に活躍。200作以上の録音に参加するなど、現代ジャズシーンを代表するドラマーのひとりである。
教育者としても後進の指導にあたり、ニューヨーク大学、サンフランシスコ大学でも教鞭をとる。
現在はサンフランシスコを拠点に演奏活動を行うとともに、サンフランシスコ音楽院などでも指導を行っている。
日本の童謡や歌謡曲をジャズとして再構築するプロジェクト「OTONOWA」の中心メンバーとしても活動し、毎年日本でもチャリティーコンサートを行っている。
音楽を通して文化や記憶、人と人とのつながりを表現し続けている。
(感想、メッセージは下のコメント欄からお願いいたします。by寺町新聞編集室


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