逆境のエンジェル

いまだからこそ考えたい戦争の傷跡|逆境のエンジェル(第31話)

逆境のエンジェルとは

「逆境のエンジェル」とは、アメリカで生活する著者が、自らの人生をふり返り、いじめや身体障がい、音楽への情熱、音楽療法士としての歩み、異文化での生活、異文化間結婚、人種差別など、さまざまな体験・挑戦を通じて得た気づきと学び、成長をつづった物語です。

前回のあらすじ

 筆者がアメリカ生活を通して経験した、現代においても深い傷跡を残す戦争の影響について語っています。(第30話『アメリカで経験する戦争の傷跡』はこちらからご覧ください)

『はだしのゲン』が心に刻んだ恐怖

 前回に引き続き、戦争について、もう一度、心を寄せてみたいと思います。

 忘れもしないあの日。小学2年生の私は、学校で毎年開催される映画鑑賞会に参加していました。

 その年の作品は、実写版の『はだしのゲン』でした。広島に落とされた原子爆弾。焼け落ちる家の下敷きになった父親。その材木を必死で動かそうとする母とゲンの姿――。私はその場面に自然と、自分自身と家族を重ねていました。

 怖くて、胸が締めつけられるほど苦しく、泣きながら観続けるしかなかったのです。泣きじゃくる私を慰めてくれた同級生たちがいましたが、それでも心のなかに重い苦しみが残り、胸がえぐられるような感覚はいつまでも忘れられませんでした。

 家に帰ってから、母に泣きながらこう叫んだことを、いまでも覚えています。「戦争になったら、みんなバラバラになって、死んじゃうよ! そんなの絶対にダメ!」と。

 その後、恐怖を抱えながらも、真実を知りたいという思いが芽生え、私は『原爆の子』※や戦時中に書かれた手紙を集めた本を手に取りました。

 それでも、なぜ人は争うのか、なぜ戦争が起こるのか、その理由を理解することはできませんでした。どんな理由を最もらしく聞かされても、納得がいかず、ただただ強烈な拒否感だけが残ったのです。

※ 1951年10月、教育学者・長田新(おさだ あらた)編により刊行された原爆体験文集

夫と共に歩いた平和の道

 あれから40年が経った昨年の夏、夫の強い希望で広島の平和記念公園を訪れました。

 広島平和記念資料館では、幼い頃に本のなかで見た写真の風景が、そこにありました。映画で感じたあの感情が鮮明に蘇り、展示室内の展示品一つひとつを見ることに辛さを覚えました。

 夫は、町と原爆投下を再現した模型の前で立ち止まり、その範囲の広さに驚きとショックを隠せなかったようです。私は、忘れてはいけない歴史として自身のなかに刷り込まなければと、目をそらさずに見るよう、自分を励ましました。

 その後、ふたりでほとんど言葉を交わさず、ゆっくりと時間をかけて園内を巡りました。

 原爆の子の像の前で立ち止まっていると、小学生の男の子ふたりが私たちに声をかけてきました。

 どうやら、校外学習の一環として、訪問した外国人からコメントを集めるという課題が出されていたようです。緊張しながら、一生懸命に準備した英文を読み上げ、真剣な表情で夫に頼む姿に、微笑ましさを感じました。

 夫も心を込めて、それぞれに自分なりのメッセージを綴っていました。そのお礼として手渡されたふたつの折り鶴を、夫が胸ポケットに大切にしまい込む姿を見て、胸が熱くなりました。

 その温かい瞬間とは対照的に、すぐそばでは地元のテレビ局のスタッフが、外国人にインタビューを試みていました。夫と小学生のやりとりが耳に入っていたはずですが、彼らがカメラを回したのは、スラリとした白人女性ふたりでした。

 その女性たちのインタビュー内容が聞こえてきましたが、正直なところ、表面的な感想に過ぎないと感じました。画面映えを考えて彼女たちを選択したのでしょうが、戦争の本質を真剣に考えるにはほど遠く、白人優位社会に媚び、助長し奨励しているようにしか見えませんでした。

 橋の上から、原爆ドームを見下ろしながら、その日、あの場所で何が起こったのかを思い浮かべました。

 静かに揺れる川の流れを見つめつつ、心のなかに重い悲しみが広がっていくのを感じました。そして私たちは、平和の鐘から原爆ドームへと、足を進めていきました。間近で見たドームの姿は、言葉ではいい表せない悲壮感に満ちていて、胸が締めつけられました。

 しかし、ドームの前には、ピックニックに来ているかのように、お菓子を食べ笑顔でピースサインをしながら記念写真を撮る観光客がたくさんいました。

 その光景に、私の胸にはいいようのない違和感が生まれましたが、夫はその違和感を超えて、明らかに憤りを感じているようでした。

 ベンチに腰を下ろした夫が、深いため息をついた後に、こう口を開きました。

 「ここは、ああいう写真を撮る場所じゃない。ここには、瞬時に消えて影だけが残り、命を奪われ、家族と二度と会えずに焼けただれて川に消えた人たちがいる。そんな場所だという認識があまりにも欠けている」。

 その言葉に、私は強く心を揺さぶられました。彼と共にここを訪れることができて、本当によかったと感じました。

 夫は、平和についての対話を続けていく大切さを何度も語ります。そして、この平和公園のような場が、どの都市にも必要だとも。彼のような外国人の声は、もっと広く聞かれるべき。そう強く思いました。

歴史からの学びが、平和への第一歩

 2023年、日本の文部科学省が『はだしのゲン』を学校教材から削除する決定をしたと、ニュースで知りました。その良し悪しの議論は置いておくとしても、同じ過ちを二度と繰り返さないために、私たちは歴史から学び続ける責任があります。

 もう少しで、第二次世界大戦を実際に経験した方々がいなくなる時代が訪れます。だからこそ、何を伝え続けるべきか、その問いを中心にした対話が求められるのです。

 ひとりでも多くの方の経験を記録に残し、未来に語り継ぐこと――それが、私たちの使命だと強く思います。

 歴史教育についていえば、ドイツの取り組みから学ぶべき点は多いと感じます。

 ドイツでは、ナチスによるユダヤ人虐殺の歴史を、小学校高学年から高校を卒業するまで深く学ぶことが義務づけられています。

 多くの学校がアウシュビッツ強制収容所を訪問し、生徒たちに歴史をただの事実の羅列ではなく、現代社会で同じ過ちを繰り返さないために、何ができるのかを考える機会として教えていると聞きました。

 ドイツの教育には、批判的思考が奨励され、ナショナリズムや偏見に対する警戒心を養い、その成果が国民のなかに根付いているといいます。

 一方、歴史教育は戦勝国の意図で語られることを象徴するかのように、アメリカの戦争に対する歴史教育は、ほとんどなされていないと感じます。

 州によってもカリキュラムが違い、基本的に教師が教えたいことを教えられるような仕組みになっています。

 そのため、ほとんどの教師は第二次世界大戦に関してあまり時間を割くことも、多角的な見方で指導することもないといいます。独学や大学に行って詳しく学ぶ人がいる程度で、まさに意図的に無知な国民を創り上げている現状が浮き彫りになります。

 仏教の教えにもあるように、人間は愚かな生き物です。だからこそ、歴史から学び、同じ過ちを繰り返さないための知恵を深めることが重要なのだと思います。

世代を超えて伝えること、それが私たちの責任

 最後に、私の家族が経験した戦争の悲しみをお話します。

 私の母方の祖父はシベリアへ送られ、帰還後、傷が悪化して足を切断したものの、最終的に傷口が化膿し、命を落としてしまいました。

 母がまだ幼い頃で、祖父の記憶はほとんどないそうです。祖母は祖父を深く愛しており、祖父からの手紙を生涯大切に保管していたと聞きます。

 祖父の死後、家系が絶えることを恐れた一族は、祖母を祖父の弟と無理やり再婚させました。しかし、年齢差や愛のない結婚生活は、祖母に辛い日々をもたらしました。再婚相手からは虐待を受け、祖母は心身ともに追い詰められていきました。

 祖母の最期もまた悲惨でした。寝たきりになった祖母を、家を継いだ長男夫婦はほとんど看病せず、母が訪ねたときには床ずれがひどく、すぐに入院させたものの、家族との摩擦や苦労が続きました。

 ほがらかにおしゃべりをしていた祖母が、彼女の夫が病室に怒鳴り込んで来た日を境に、まったく言葉を発しなくなりました。

 母と父は祖母を引き取ろうとしましたが、古いしきたりの残る田舎では裁判を起こすこともできず、母はできる限り看病に通いました。

 それから2年後に、祖母が亡くなり、しばらくして、今度は母自身がそのときのストレスで心筋梗塞で倒れ、生死をさまよいました。

 母は、自身の幼少期の体験から「戦争」という言葉を聞くと、強い反応を示します。「絶対に戦争はだめ!」と。私の戦争に対する強い感情も、母からの影響を受けているのだと感じます。この家族に続く間接的な戦争の傷跡の連鎖が、私たちの心に刻まれているのです。

 当時、祖母のように、戦死した夫の兄弟と再婚を強いられることは珍しくなく、断ることのできない社会的背景もあったでしょう。

 人はいつかこの世を去るものです。それでも、戦争による死は、本来避けられるべきものであるだけに、悲しみと無念さが募ります。愛する夫を失い、再婚相手との不和に苦しんだ祖母の人生が、私の心に重くのしかかります。

 祖母は「笑う門には福来たる」といって、いつもほがらかに笑っている女性でした。その姿を、私はいまでも鮮明に思い出します。

 このような過去があったからこそ、私たちは未来に向けて何を学び、何を伝えていくのかを真剣に考える必要があると考えます。過去の苦しみを無駄にせず、次の世代が同じ苦しみを繰り返さないために、歴史を語り継ぐことが私たちの責任です。

 そのためには、対話を続けること。そして過去の教訓を心に刻み続けること。そこから平和への一歩が始まるのだと、いま強く感じています。

 次回は、BLM(ブラック・ライブズ・マター)運動から、自分たちに何ができるのかを考えてみたいと思います。

第32話はこちら

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感想、メッセージは下のコメント欄から。みなさまからの書き込みが、作者エンジェル恵津子さんのエネルギーとなります。よろしくお願いします。by寺町新聞編集室

ABOUT ME
エンジェル 恵津子
東京都出身。音大卒業後イギリスに渡り、現在はアメリカのカリフォルニア州立病院で音楽療法士として勤務。和太鼓を用いたセラピーは職員、患者共に好評。厳しい環境下で自分に何ができるのか模索しながら、慈悲深く知恵のある人を目指して邁進中。 歌、折り紙、スヌーピーとスイーツが大好き。
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POSTED COMMENT

  1. パープル より:

    有り難く読ませていただきました。読んでいて情景が浮かび、エンジェル恵津子さんや旦那さんの思いにも共感しています。私は音楽指導者ですが、これからも歴史から人間を学び続け、音楽をツールに平和と希望を身近な人と分かち合う活動をしようと思いました。
    何か出来ることをコツコツと。この新聞によってエンジェル恵津子さんのような伝える方を知り、励みになります。

    • エンジェル 恵津子 より:

      パープルさん、温かいコメントをありがとうございます。

      共感していただけて、とても嬉しいです。音楽指導者として、音楽を通じて平和と希望を広める活動をされるとのこと、とても素晴らしいと思います。応援しています。

      私たち一人ひとりが歴史から学び、小さなことから行動を起こすことで、変化を生み出せるのだと思います。これからもお互いに自分のできることで、世の中にひかりを灯していきたいですね。

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