逆境のエンジェル

アメリカで経験する戦争の傷跡|逆境のエンジェル(第30話)

逆境のエンジェルとは

「逆境のエンジェル」とは、アメリカで生活する著者が、自らの人生をふり返り、いじめや身体障がい、音楽への情熱、音楽療法士としての歩み、異文化での生活、異文化間結婚、人種差別など、さまざまな体験・挑戦を通じて得た気づきと学び、成長をつづった物語です。

前回のあらすじ

 アメリカの子どもたちが直面しているメンタルヘルスの問題や、深刻な親子関係について語っています。(第29話『アメリカの児童と10代のメンタルヘルス問題』はこちらからご覧ください)

私たちがいま、考えるべきこととは

 8月15日は、日本における終戦記念日。この日を迎えるたび、私たちは単に過去の歴史を振り返るだけでなく、現代における戦争の影響について深く考えるべきだと強く感じます。

 今回は、大愚和尚のお盆の法話でも触れられた「戦争」というテーマについて、2回にわたり考えてみたいと思います。

 戦後生まれの私は、戦争そのものを直接体験していません。しかし、祖父母や母から聞いた話、そして、今年2月に参加した「Day of Remembrance (追悼の日)」の集会や、その時に上映された映画を通じて、戦争が残した深い傷跡が、いまなお続いていると強く感じました。

 実際、いまの世界情勢は非常に不安定だと感じている方も多いでしょう。ウクライナとロシアの戦争、イスラエルとパレスチナの紛争、ミャンマーでの内戦…。新聞を開けば、戦争に関する報道が毎日のように目に飛び込んできます。

 こうした状況を前にして、私たちは戦争の善悪を論じるだけでなく、その背後にある一人ひとりの人生や苦しみに目を向ける必要があるように思います。

戦争にのみ込まれる、一人ひとりに目を向けているか!?

 先日、イスラエル人の同僚が、グループセッションの後、抑えきれない怒りを抱えながらオフィスに戻ってきました。

 「聞いてよ! デイビッドが、イスラエルとパレスチナの戦争を知らなかったっていうのよ! これ、昨日今日始まったことじゃないのに、どうしていままで知らなかったの? 病院にはいろんな国籍の患者がいるのに、あり得ないわ!」

 この看護師は、彼女がイスラエル出身のユダヤ人であることも知らず、イスラエルを批判するような発言までしたそうです。それが彼女の怒りをさらに募らせていました。

 昨年、イスラエルとパレスチナの戦争が再燃した翌日、彼女が不安そうに「始まっちゃった…」とつぶやいたのを覚えています。そのとき私は、彼女の瞳に浮かんだ涙を見て、そっと抱きしめることしかできませんでした。

 彼女の両親は、イスラエルとガザの国境から30キロほど離れた場所に住んでいます。最近も、彼女は一人で、両親と兄弟の様子を見に帰省していました。彼女の心のなかにはつねに、故郷で暮らす家族に対する強い不安があり、その重みを感じずにはいられません。

 一方、2カ月ほど前、日本からアメリカの自宅に戻る際、サンフランシスコ空港から利用したタクシー運転手の話も忘れられません。

 ガザ出身だという運転手は「ときには出身地をいうだけで、冷たい態度を取られることもある」と話しました。彼は「情勢は極めて悪い」と現地に残る親戚を非常に心配しつつ、それでも「自分たちがアメリカで生活できているのは幸運だ」と静かに語っていました。

 どの国を味方するとか敵視するとか、私たちはとかくそういうことに目を向けがちです。

 しかし、そこに住む一人ひとりには、独自のドラマがあります。それぞれがそれぞれの人生を歩んでいるのです。そんな一般人の命が、政治や国、企業の利益のために脅かされ、奪われることなどあっていいわけがない! そう強く思うのです。

注:本文中に出てくる名前は仮名であり、実在のものとは異なります。

わざと無知のままでいようとする、罪

 今年の2月、私は初めて「Day of Remembrance」の追悼集会に参加しました。毎年、サンノゼにある日系博物館や、その他の日系人の団体と共同で開催されるこの集会では、それにちなんだ映画などが制作・上映されます。

 みなさんは戦時中、日系人が強制収容所に入れられたことをご存知でしょうか。

 1941年12月7日の真珠湾攻撃を契機に、日系アメリカ人に対する不信感は、急速に高まりました。そして、日米開戦の翌年1942年、アメリカ西海岸とハワイの一部の地域に住む日系人は、国家の安全保障の脅威になるという理由で、強制収容所に送られたのです。

 その数、約12万人。その7割がアメリカ生まれの2世で、市民権を持っていたにも関わらず、です。赤ん坊や老人も例外ではありませんでした。

 収容所では、日系人たちは粗末なバラックでの共同生活を強いられ、物資不足や過酷な気候に耐えながらも、コミュニティの絆を守るために懸命に努力しました。

 今年の集まりは「イスラエルとパレスチナ戦争の問題と、日系人の強制収容所収監の類似性」という観点から話が進められた、とても興味深いものでした。さらに、差別や戦争の歴史を考えるとき、「黒人の歴史に学べ!」とも。歴史を通じて連帯し、差別や不正義に対抗してきた黒人たちの歴史にこそ学びがある、という話には胸が熱くなりました。

 なかでも、最も強いメッセージとして心に響いたのは、小柄な日系3世のグレースさんによる力強いスピーチ。彼女は、団結して平和を築いていくことの大切さを語り、同時に、無知すぎる日本人や若者たちの現状を指摘しました。

 現代に生きる多くの人々は、「わざと無知のままでいようとする」。その言葉に私もハッとしました。若者だけでなく、そうした傾向が世の中にはあり、それが「クール」であるという屈折した言葉で表現されます。大愚和尚も「人間の無知と愚かさ」についてよく言及されますが、そのこととも重なりました。

サンノゼにある日系アメリカ人博物館

戦争は「人間の尊厳」を破壊する

 戦争はひとつの国の政策や歴史にとどまらず、人々の人生に深い傷跡を残し続けます。

 『Farewell to Manzanar』(マンザナールよさらば 〜 強制収容された日系少女の心の記録)という回想録では、著者ジャンヌ・ワカツキ・ヒューストンが幼少期を過ごした、マンザナー収容所での過酷な日々が綴られています。

 なかでも、ジャンヌの父親が収容所で尊厳を失い、家庭内での威厳が崩れていく様子には、戦争の影響がどれほど個人の心を蝕むかがリアルに伝わってきます。

 彼は、戦前は家族を支える誇り高い人物でした。しかし、収容所での屈辱的な扱いと無力感から酒に溺れ、家族との関係が悪化。娘であるジャンヌは、その父親に対する失望と困惑を抱えながら、収容所での生活と自分のアイデンティティに葛藤を抱き続けます。

 この本の第16章で、ジャンヌは差別について以下のように述べています(注:英文からの翻訳)。

 身体的な暴力は気になりませんでした。どこかで、そんなことが私たちに起こるとは信じられなかったか、信じたくなかったのです。問題だったのは屈辱でした。それまで漠然として名前のない痛みとして感じていたものが、いまや明確で具体的なものになりました。それは「憎まれることの予感」とでも呼べるものでした…。10歳の私には、それが判決のように迫ってくるのが見え、そんな瞬間に直面するくらいなら、永遠にキャンプのなかに留まりたかったのです。

 

 またジャンヌは、収容所から解放された後、自分が「アメリカ人」として受け入れられるために、日本のルーツから距離を置くことが最善だと感じ、文化に順応しようと必死で努力しました。

 そしてジャンヌは、次のように述べています。

 アメリカの驚くべき点のひとつは、あなたを打ちのめしながらも、自分の可能性を信じさせ、希望を抱かせ続けるところです。

  

 この表現は、まさに的を射ていると思います。俗にいう「アメリカンドリーム」。人種による優位主義により打ちのめされながらも、努力すればきっと手に入ると希望を抱かせる。そんなアメリカの魅力が存在しています。

 『Farewell to Manzanar』は、戦争による人種差別や強制収容が、家族や個人のアイデンティティにどれほど大きな影響を与えたかを描き出し、過去の過ちを繰り返さないための教訓として、私たちに問いかけています。

 現在の世界においても、戦争や紛争が原因で、特定の民族や国籍の人々が標的にされることが続いています。差別と偏見は形を変え、いまなお多くの人を苦しめています。

 私が参加した2024年の追悼イベントでは、第二次世界大戦中の日系アメリカ人の苦しみと、現代の差別や人権侵害の問題が、リンクして語られました。

 戦争の記憶は、決して過去のものではありません。私たちが歴史を学ぶ意味は、過去を反省するだけでなく、未来に同じ過ちを繰り返さないための教訓として活かすことにあると信じています。

 次回は、筆者の経験を通して感じた、日本にいまなお深く残る戦争の傷跡について語ってみたいと思います。 

第31話はこちら

バックナンバーはこちら

 

Angel’s column 【知ってほしい! アメリカの社会的背景 その⑯

 「Day of Remembrance(追悼の日)」は、毎年2月19日に行われる記念日です。1942年のこの日、当時のアメリカ大統領フランクリン・D・ルーズベルトが「大統領令9066号」に署名。以後、約12万人の日系アメリカ人が西海岸から強制的に収容所へ送られることとなりました。彼らの多くは、何の罪もないアメリカ市民。にも関わらず「敵性外国人」と見なされ、戦時中の偏見と恐怖のなか、自宅や財産を失い、厳しい収容所生活を強いられました。

 実はその背景には、日系移民が西海岸地域で、農業や商業で成功していたことに対する経済的嫉妬があったといいます。彼らは勤勉で高い技術力を持ち、特に農業分野で成功を収めていたため、その存在が一部の白人経営者たちに脅威と見なされていたのです。

 強制収容所での経験は、戦後も日系アメリカ人に深い傷跡を残しました。それでも彼らは差別と戦い、1970年代から正義を求める運動を始め、その結果、1988年にアメリカ政府が正式に謝罪。市民自由法により補償が行われました。この歴史は、現代における偏見や差別と向き合う際の、重要な教訓を与えてくれます。

 ちなみに、多くの日系アメリカ人男性は、アメリカへの忠誠を示すために志願し、第442連隊戦闘団に入隊。「Go for Broke(命がけで)」を合言葉に、彼らはヨーロッパ戦線で勇敢に戦いました。この部隊は、アメリカ軍史上で最も多くの勲章を獲得した部隊であり、日系アメリカ人が差別に立ち向かい、尊厳を守る象徴としても知られています。

感想、メッセージは下のコメント欄から。みなさまからの書き込みが、作者エンジェル恵津子さんのエネルギーとなります。よろしくお願いします。by寺町新聞編集室

ABOUT ME
エンジェル 恵津子
東京都出身。音大卒業後イギリスに渡り、現在はアメリカのカリフォルニア州立病院で音楽療法士として勤務。和太鼓を用いたセラピーは職員、患者共に好評。厳しい環境下で自分に何ができるのか模索しながら、慈悲深く知恵のある人を目指して邁進中。 歌、折り紙、スヌーピーとスイーツが大好き。
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