あなたは「牛に引かれて善光寺まいり」ということわざを、耳にしたことがあるでしょうか。
長野市の信州善光寺は1400年もの歴史を誇り、古来より「一生に一度は参れ」という言葉もあるほど、全国でも指折りに有名な寺院です。
その教えやご本尊の“分身”として、東海地方の善光寺信仰のために建てられた、愛知県の善光寺東海別院。その地名から祖父江(そぶえ)善光寺とも呼ばれるお寺様を、今回お尋ねしました。
戒壇巡り(かいだんめぐり)のほか、人々の前で絵軸(えじく)を掲げ、仏教の歴史や信仰を語る“絵解き(えとき)”など、たいへん興味深い活動をされている寺院様です。
お寺の中にお寺がある?
現地に着くと、見上げるような大きなお堂。善光寺特有の意匠(いしょう:デザインや装飾)である二重の屋根からも、その格式や伝統が肌身に感じられます。
実際に目の当たりにすると、事前にホームページで見た写真のイメージよりも、はるかに大きく感じられました。しかし境内に入ってすぐ、ひとつの疑問が浮かびます。目のまえには「天台宗・根福寺(こんぷくじ)」と刻まれた石碑と、お堂がありました。
うっかり、べつの寺院に足を踏み入れたのかと思いましたが、場所は間違いなく善光寺の境内です。これは、どういうことなのでしょうか。その理由も含め、この訪問ではご住職の林和伸(はやし・わしん)和尚にインタビューし、様々なお話を伺うことが出来ました。
ー 善光寺というお寺の名は全国で耳にします。特定の宗派などはあるのでしょうか
林和尚:まず私どもは、長野県の信州善光寺の信仰を受け継ぐお寺です。その形態としては、特定の宗派を持たない超宗派ですから、どんな宗教のどんな宗派に属している方でも、お参りして頂けます。
この教えに寄りたいと思えば信仰して頂き、その必要が無いと思えば、離れて頂くのも自由。本来、信仰とはそういうものと捉えておりますから、檀家制度もありません。ここに善光寺信仰の特徴が伺えます。
※善光寺信仰は多種多様な形で、日本全国に広まりました。“善光寺”の名をいただいても、宗派に属する寺院や、信州善光寺と違う方針で運営されているお寺様もあります
ー そうだったのですね、はじめて知りました。同じ“善光寺”のお寺様同士は、やはり交流などもあるのでしょうか
林和尚:はい。地域や宗派を超えて、様々な交流があります。平成になって信州善光寺が全国調査を行いましたところ、正式名に善光寺とつくお寺は119、善光寺にゆかりのある寺院は、443あると分かりました。
それで、これを期に互いに親睦を深めようと、平成5年11月に“全国善光寺会”という集まりができました。
ー それほどの寺社が1つに、それは本当に素晴らしい事ですね。境内に天台宗の根福寺があるのも、そうした背景があったのですね。こちらも林和尚が住職をされていらっしゃるのでしょうか
林和尚:そうですね。ちなみに善光寺信仰においては、僧侶よりも教えそのものや、伽藍(がらん:お寺の建物の総称)や、ご本尊の姿にこそ着目して欲しいという考えがあります。
本来は「私が住職です」と名乗り出るものではないのですが・・境内の根福寺も、私が住職を兼任させて頂いております。
ー 参拝にいらっしゃるのはどのような方が多いですか
林和尚:いらっしゃる理由としては色々で、何かしらお願いごとやお困りごとを抱いて来られる方もありますし、観光で立ち寄られる方など、本当に様々です。
ー 人形供養やペット供養、ご祈願や戒壇巡りなど、行っていらっしゃることも多種多様ですね
林和尚:私どもとしては、可能な限り“出来ないことはない”お寺でありたいと思っています。ある方が「善光寺は、困ったときのお寺ですね」とおっしゃって下さったのですが、これは本当に良い表現をして頂けたなと感じまして。
その言葉の通りに、何か困ったときにはいつでも足を運ぶことが出来て、寄り添うことができる場所。これからも、そんなお寺で在り続けたいと思っています。
織田信長も欲しがった善光寺仏
ー 境内では水に浮かんだ蓮を、たくさんお見かけしました
林和尚:はい。お釈迦様をイメージするお花であることと、当寺院が創建される以前、この地には沼が広がっていました。そのなかに1つの茎が分かれ、2つの花が咲いた蓮があり、それが2年連続で起こったという言い伝えがあります。
その現象が「これは善光寺の仏様が2つに分かれ、この地にいらっしゃる予兆に違いない」と考えられ、当地に寺を建立したのが、始まりと言われております。
その由来から山号(さんごう:お寺名の前につく称号)を双蓮山(そうれんざん)と称し、シンボルマークにもなっています。
ー 本堂の冊子を拝見したのですが、かつてこの地には織田信長が立ち寄ったとも書かれています。織田家と何か繋がりがあったのですか
林和尚:これはですね、ひとつの言い伝えなのですが、当寺院と特別に関係があったわけではありません。ただ戦国武将というのは、常に生死をかけた世界に生きていましたから“自仏(じぶつ)”といって、仏様を自らの元に置いて、守って貰いたいと考える風潮があったのですね。
なかでも信州善光寺のご本尊は、戦国大名の自仏にしたいナンバーワンだったとも、言われています。それで織田信長もご本尊を、自領に運ぶ途中でここへ立ち寄ったと。
また武田信玄なども、自領にお寺を建て(甲斐善光寺)、そこに信州のご本尊や仏具、お坊さんたちを連れて行ったという記録があります。
ー 僧侶までも連れて行ってしまうのですか。ご本尊も新しく作るのでなく、武将が持って行ってしまうのですね
林和尚:はい。それから本能寺の変の後には、豊臣秀吉や徳川家康もまた、ご本尊を別の地へ移したと言われております。その様にして、信州善光寺にはご本尊不在の期間が、この時代は何年もあったそうです。
当時の戦国武将たちは、それくらいスケールの大きなことを、やっていたわけですね。歴史をひも解いて行くと、本当に色々なことがあったのだとわかります。
現代によみがえらせた“絵解き”
※「絵解き(えとき)」…上図のような絵軸を掲げ、聴衆に仏教のものがたりを語ること
ー いちど途絶えた“絵解き(えとき)”をご住職様の代で、蘇らせたと伺いました。なぜ復活しようと思われたのでしょうか
林和尚:当寺院の歴史をたどると、最初は何もない所から、初代住職が各地で浄財(じょうざい)集めをして回られ、その資金によって建立されました。そのときには当然、人々の理解を得る必要があります。それで仏の教えや善光寺信仰を描いた絵軸を持ち歩き、絵解きをして回ったことが始まりです。
ー これだけ大きな伽藍と見事な意匠、とてつもない資金や技術の結集ですよね
林和尚:そうですね。時代的には「私たちの地域に、あの善光寺をお迎えできる」というニーズが、今よりはるかに大きかった背景もあるでしょう。
それにしても想像を絶するご尽力があったことは、間違いありません。その後、時代の変遷とともに絵解きは途絶え、信仰も衰退してしまったということがありました。
それをまた、何とか広げて行けないものかと。その一環として、復活させた側面もあります。この絵解き復活のプロジェクトは、家内の麻子が中心となって過去の記録を探し回り、大学の先生にもご協力を頂くなどして、手がかりを繋ぎ合わせて行きました。
決して簡単な道のりではありませんでしたが、初代ご住職の尽力を思うと、やらないわけにはいかないなと、そういう気持ちでしたね。
ー 絵解きの内容は、昔と今では違ったものなのでしょうか
林和尚:お伝えしたいメッセージは通じていますが、長さや語り方は現代に合わせていますので、だいぶ違います。たとえばテレビやインターネットもない昔は、「和尚が話をする」と言うと、あちこちから人が集まり、半日でも1日でも聞きたいという方が、大勢いらっしゃいました。
絵解きも、娯楽の1つとして足を運ばれる方も、少なくありませんでした。
ところが、現代ではそうは行きません。そんなにも長々とお話したら、皆さん眠ってしまわれるでしょう。ですから基本の台本は、耳を傾けて頂ける時間を20分と想定し、それに合わせて作り直しています。
また聞くのがどのような方々かによって、興味や伝わり方も違いますので、それに合わせた話題や時事問題を挟むなどして、語りも変化させていますね。
ー 現在、絵解きの“口演(こうえん)”も、奥様が担当されていらっしゃるそうですね
林和尚:はい。それも理由がありまして、女性の声の方が耳に入りやすいですから。また「和尚が話します」というと、それだけでかた苦しいイメージに、感じられてしまう場合もあります。そうした背景もあり、家内がその役割を買って出てくれました。
いずれにしても実際に耳にして頂くのが、いちばん分かりやすいと思いますので、ご興味がありましたら、ぜひ多くの方に聞いて頂きたいですね。
五感が研ぎ澄まされる参拝
ー 戒壇巡り(かいだんめぐり)は、最初ほんとうに真っ暗で驚きました。この闇は、何か人生の迷いや不安のようなものを表しているのでしょうか
林和尚:戒壇巡りが何を表しているのか、これは信州善光寺も特定の見解は明言しておりません。自由に解釈して頂くことが出来るわけですが、私としては、これは1つの“臨死体験”と考えています。
暗闇というものは誰しも、怖さを感じるものです。そして人間にとって一番の恐怖は“死”であるとも言えますよね。
そのような中から、ぼうっと少しずつ光が見え始め、やがてまばゆいばかりの極楽世界で、仏様と対面します。
そこにある錠前(じょうまえ)に触れ、ご本尊様とご縁を結ぶことで、救われる。個人的には、そのように解釈させて頂いています。
ー 戒壇巡りの後も、石仏(せきぶつ:石に彫られた仏像)の重さを体感する“おもかるさま”や銅鑼(どら)を鳴らすなど、五感が刺激されるような、様々なものがありますね
※おもかるさま
林和尚:ええ、これらも参拝にいらっしゃって下さった方には、せっかくですから色々な体感をして頂きたいという考えがあります。
※自身の良き体験や想いを、世の人々に分け与える銅鑼(どら)
ちょっとしたナゾかけのようなものですとか、楽しんで頂くというと大げさかも知れませんが、そうした様々なものを、体験して頂ける形になっています。
人々と仏様を繋ぐために
ー 最後に、これからの展望などありましたら、是非お聞かせください
林和尚:はい、私はこの寺に奉職して20年になるのですが・・これまで老朽化した本堂の立て直しなど、目まぐるしく立ち回って参りました。お陰さまで最近、それらは落ちついて参りましたので、いちど原点に立ち帰りたいと考えております。
私どもの役目とは、なにか。それはやはり、お寺へいらっしゃる方と仏様とをいかに繋ぐか、その環境を作ることだと思うのです。
何かしら救いを求め、すがりに来られる方の拠り所となる、これも1つ大切なことではあります。ただ私としては「善光寺信仰とは、このような教えです」と、是非それも知って頂いた上で手を合わせて頂けたら、なお良いと考えています。
ー まさに、絵解きの復活もその1つでしょうか
林和尚:はい、いま思案しているのは絵解きを通じて、もういちど信仰を広める機会を、作って行きたいと思っております。
いずれにしても私どもとしましては、つねに発信は多角的にして参りたいと思っております。琴線に触れる方が多いほど、それは信仰に結びつくきっかけとなるわけですから。
善光寺らしく、こうでなければという概念に縛られず、この先も様々な形を模索して行きたいですね。
もしお近くに立ち寄られることがありましたら、是非どなたでも善光寺東海別院へ、いちど足を運んで頂けましたら幸いです。
編集後記
名古屋駅から電車に揺られて、40分ほど。車窓から見える都会の街は、だんだんと田園風景へと変わって行き、最寄り駅からお寺までの道のりも、長閑な景色に癒される思いでした。
また本堂は荘厳な意匠でありながら、圧倒されるといった雰囲気ではなく、境内はどこも和やかな空気に満ちているお寺様でした。
このたび取材をさせて頂いたことで、外側からだけでは分からないご住職の想い、また善光寺信仰の歩みを知ることが出来ました。
初めてお伺いしたにも関わらず、快くインタビューに応じて下さった林和尚、本当に有り難うございました。寺町新聞では今後も折に触れ、仏教に関わる様々な探訪を行い、ご紹介して行きたいと思います。ぜひ引き続き、ご覧頂けましたら幸いです。