海外に渡ってチャレンジする日本人はたくさんおられますが、それぞれに波乱万丈の人生があり、いまに至る物語があります。ここではその「人生の物語」にフォーカスし、インタビューを通じて、その方の「人生の気づき」をご紹介していきます。
今回は、アメリカ・カリフォルニア州オレンジカウンティにお住まいの孝薫裕月(こうくん ゆうげつ)さんにお話を伺いました。
宮城県仙台市出身の裕月さんは、大愚和尚のもとで戒名を授かり、2023年5月にロサンゼルスで開催された大愚道場では司会を担当されました。
「ごく普通の家庭で育ちました」とおっしゃる裕月さん。3人姉弟の真ん中の、物静かで恥ずかしがり屋の少女だったそうです。そんな裕月さんが海外で生活することになったきっかけとは?
それでは、裕月さんの人生の旅にご一緒しましょう!
物静かな少女が海外に目覚めた!?
◾️海外に興味を持たれたきっかけについて教えてください。
裕月:私が通っていた高校の姉妹校がニュージーランドにあり、当時、約2週間の交換留学生として「ニュージーランドに行こう」という企画がありました。そのとき自分のなかで感じるものがあったのか、「ぜひ行ってみたい!」と志願したのが始まりです。
ただ、親から見て、私はとても物静かで、外泊も好まないような子どもだったようです。それだけに、突然「留学したい」といい出したときは、かなり驚かれましたね。
そんな親を説得しての、夢いっぱいの留学でした。初めての海外はものすごく新鮮で、たくさんの刺激を受けました。
とはいえ、親からそれほど長く離れた経験はなかったので、ホームシックになりました。それでも、日本にはまだ帰れないぞ!という思いでがんばり、2週間をやりきりました。
◾️初めての海外経験は、自立への第一歩となったのですね。
裕月:そうかもしれません。実際、それ以来、海外への強い憧れを抱くようになりました。帰国後は「高校をやめてニュージーランドに行きたい」とか、めちゃくちゃなことをいって親を困らせたこともありました(笑)。
親からは「とにかく日本の高校を卒業しなさい」といわれ、そうこうしているうちに受験の時期を迎えました。
通っていた高校には推薦制度があったので、受験することなく短期大学に進学しました。
ただ、短大在学中に、今度はアメリカの大学に行きたいと思うようになりました。そこで、TOEFLなど受け、渡米に向けた準備を始めました。
なぜアメリカに行きたいと思ったのか、その理由は自分でもよくわからないのですが、このまま短大に行って、日本の企業に就職して、それから結婚して…と想像したとき、なんだか人生がとてもつまらないように思えてしまったのです。
そうなると、海外に行きたい気持ちが抑えられなくなりました。
そこで、渡米に向けた準備をすべく、短期大学に通い始めてすぐ、妹が通っていた学習塾でアルバイトを始めました。
そして、その塾の先生との出会いのおかげで、ただの遊びのような短期留学ではなく、本格的に、海外で生きていけるような留学がしたいと考えるようになりました。
それからは、アメリカの大学で学べる力を身につけるための勉強をする、という生活が始まりました。短大に行っていない時間はすべてその塾に行き、教えるかたわら、自らも学ぶという時間を過ごしました。
そして、やっとアメリカのコミュニティカレッジ(※)の入学が決まり、23歳にして日本を出ることとなりました。
◾️ ずいぶん努力されたのですね。親御さんにはどのように説得を?
裕月:とりあえず約束どおり短大は卒業しましたが、やはりかなり心配されました。なかなか納得してはもらえなかったので、どちらかというと心配をふりきる形で渡米しましたね。
アメリカのコミュニティカレッジに入学後は、4年制大学に編入し、トータルで5年くらい学生生活を送り、無事、卒業できました。
◾️ アメリカでの学生生活はどのようなものでしたか?
裕月: もう20年ほど前のことなので細かい記憶は薄れていますが、アメリカに来たばかりの頃はカルチャーショックを受けることもありました。
最初はホームステイをしていました。メキシコ系の家庭にお世話になり、そこから歩いたりバスに乗って学校に通っていました。
最初の数カ月は楽しく過ごしましたが、ホームステイの費用が当時で月600ドル(約10万円)ほどと高かったので、友人たちとアパートをシェアすることにしました。
3人でベッドルームが2つある部屋を借り、家賃はひとり300ドル程度。このアパート生活をきっかけに、自炊や掃除、洗濯といった家事を自分で行うようになりました。
実家暮らしの日本では、家事はほとんど親まかせ。なので、戸惑うことも多かったですが、すべてが新鮮で、自立した生活を楽しんでいました。
自分で肉を切って料理することも初めてで、生活の基本を一つひとつ学んでいきました。まさに自分の生活をつくり上げる、という感覚があり、そうした経験を通じ、「自分の足で立つ」感覚を少しずつ、つかんでいった気がします。
◾️ カレッジや大学ではどんなことを学ばれましたか?
裕月:コミュニティカレッジで一般教養を学んだ後、UCI(アーバイン大学)に編入しました。専攻は心理学で、英語の専門書を読まされ、課題もたくさん出され、論文も書いたり…と、本当に忙しい日々でしたが、やりがいもありましたね。新しい知識を吸収したり、さまざまな人と交流することが楽しかったです。
◾️ 心理学を専攻したのはなぜですか?
裕月:実は深く考えて選んだわけではなく、興味のある分野が他になかったので、なんとなく選んだ感じです。心理学は仕事に直接結びつかないので、就職に関しては難しい道を選んでしまったと感じています。
◾️ ご主人とは当時、出会われたそうですね?
裕月:はい、UCIのキャンパスで、コンピュータサイエンスの日本人教授のサポートをするアルバイトをしていたときに出会いました。彼はコンピュータサイエンスを専攻するほか、キャンパス内でも意欲的に活動している人でした。日本人同士、話も合い、一緒に働くうちに自然と親しくなり、交際が始まりました。
※コミュニティカレッジ:地域住民の教育機会提供の場として設立された公立の2年生大学。ここで優秀な学業を修め、名門大学へ編入する学生も多い

楽しい生活を一変させた!衝撃の出来事
◾️ そんな楽しい学生生活が一転した出来事があったそうですが…。
裕月:学生生活はとても楽しく、充実していました。まさに青春を謳歌している感じでしたね。ただ、その間に母が病気になっていたんです。
がんだったんです。がんの原因は、積もり積もった生活習慣やストレスからだといいますよね。
私は海外にいることで母に心配をかけていましたから、責任を感じました。ほかにも母は、自分の母親や義理の母親との関係に苦労が多かったようです。
父の両親は、当時めずらしく離婚しているんです。私の父は、母ひとり子ひとりで育ったため、親子関係がとても密だったようです。
父方の祖母にしてみれば、かわいいひとり息子をお嫁さんに取られた、という感じだったんでしょうね。
そうした状況のなか、母は義母に対し、嫁としてかなり尽くしていたと思います。娘から見ても痛々しく感じるほど、いつも一生懸命でした。
母は姑だけでなく、実の母親との関係に対しても、ストレスがあったように感じます。
私の母はとても世話好きで、よくできた人ですが、祖母は少しわがままなところがあり、母は自分の母親にも気を遣っていたのではないかと思うことがあります。
週末には、自分の母や義理の母のところに行って、話を聞いたりしていましたが、とても大変そうに感じました。
それゆえ、私からすると、そうした親子関係が、がんになった原因だと思えて仕方ないのです。
母の乳がんについて私が知ったのは、すでに手術が終わったあとでした。私には知らせないようにしていたんですね。
手術は成功したと聞いていたので、「そうなんだ、気をつけてね」という感じで、当時は一度も日本には帰りませんでした。
それだけに、姉から「ゆうちゃん、お母さんの死に目に会いたい?」と聞かれたときはショックでした。
◾️ お母さまの状態は深刻だったのでしょうか?
裕月:はい。私も驚いて「それってどういう意味?」と聞きましたら、乳がんの手術は成功したけれども、すでに体のあちこちに転移しているので、危ないとのこと。
実はその少し前に、私の両親は、ふたりでアメリカに遊びに来ていたのです。私は当時付き合っていた彼(今のご主人)をちゃんと紹介したかったので、呼び寄せていたのです。
思えば母は、決死の覚悟でアメリカに来てくれていたんですね。1週間ほど滞在し、主人も仕事を休んでくれて、一緒に過ごしました。
◾️ 素敵なご主人ですね。
裕月:いま思うと、私も状況をあまり把握していなかったんです。体調がよくないとは知っていましたが、まさかそこまで、とは思っていなかったので。
そんななか主人は気を利かせてくれて、母が横になれるようにと大きな車を借り、運転してくれました。グランドキャニオンに行ったり、セドナにも行きました。
考えてみれば、そんな状態の人をグランドキャニオンに連れて行くなど、ちょっと無謀だったかもしれません。
それでも、その旅行の間に主人をちゃんと紹介することができました。「これからよろしくお願いします」という話もして、日本に帰国したんです。
あとで父から聞いたのですが、帰りの飛行機では相当しんどかったようで、空いている席を母が横になれるようにしてもらい、なんとか帰ったそうです。
アメリカは暖かかったけれど、実家がある宮城県はすごく寒いので、それもこたえたみたいですね。日本に戻ってからガタガタときてしまったそうなんです。

裕月さんのお母さまがアメリカに来られたときの写真
家族との大切な時間を作ってくれた母
◾️ 裕月さんに会いたいお気持ちから、気丈にされていたのですね。
裕月:そうだと思います。「お母さんは、信じられないくらいアメリカでは元気だったんだよ」と、あとで父がいっていました。
娘に会いたい一心だったのでしょう。何年かぶりに会ったんですものね。
姉から「死に目に会いたい?」という連絡がきたのは、それからほどなくしてのことでした。「危ないようなので、会いたいのなら来た方がいい」といわれ、すぐ向かいました。
当時の仕事先の会社にも、こういう状況なので、いつアメリカに戻ってこられるかわからないと伝え、日本行きのチケットだけ買って帰りました。
12月18日に日本に着いて、数日間、母と家族と一緒に過ごしましたが、母はがんの転移が広がっていて、脳にまできていたようです。
記憶も言動も、体の動きもおかしくなっていて、そうしているうちに12月22日、私の誕生日に入院。そして、2日後のクリスマスイブの早朝に亡くなりました。
私の帰国後、みるみる状況は悪化していきましたが、これは多分、私の顔を見て安心して、力が抜けたということもあるように思います。母は言動に支障があったとはいえ、私とはちゃんと話をすることができました。
母が亡くなってからも姉弟と一緒に過ごせて、祖母にも会えました。私にとっては久しぶりの日本。だから、母がそういう時間をつくってくれたのではないかと、母の心遣いを感じました。
◾️お話を伺っていると、お母さまに対する愛情の深さを感じます。
裕月:母はものすごくがんばり屋で、私の知らない苦労もたくさんしてきたと思います。
でも文句のひとつもいわない。いつも周りに感謝しているような人でした。最後に、家族を引き合わせて亡くなるということもしてくれた。私には到底まねできない、本当にすごい人。私の目標である人です。

裕月さんのお母さまが亡くなられる数日前に一緒に撮った最後の写真
裕月さんのお話を通して、お母さまへの深い愛情や感謝の気持ちがひしひしと伝わってきました。彼女自身の挑戦や成長の背景には、お母さまの支えや教えが大きく影響していることを、裕月さんの一言ひとことから感じました。
ご趣味の手芸を生かしたプレゼントなどで周囲を喜ばせるなど、人に尽くすということを自然に日常的にされていたというお母さま。その献身的な生き方を通じて、裕月さん自身もまた、人としての強さや温かさを育んでこられたのでしょう。
次回のインタビューでは、裕月さんがアメリカでの生活によって、どのように変化し、人生の新たな章を切り開いていったのか、さらに深くお話を伺っていきます。どうぞご期待ください!
(取材:エンジェル恵津子)
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