逆境のエンジェル

見えないバリアがつくる障がい者との距離|逆境のエンジェル(第35話)

逆境のエンジェルとは

「逆境のエンジェル」とは、アメリカで生活する著者が、自らの人生をふり返り、いじめや身体障がい、音楽への情熱、音楽療法士としての歩み、異文化での生活、異文化間結婚、人種差別など、さまざまな体験・挑戦を通じて得た気づきと学び、成長をつづった物語です。

前回のあらすじ

 筆者が自身のなかに感じた心のバイアスなど、人種差別の問題を無意識の差別の観点から考察しています。(第34話『心の奥に潜む無意識の差別と向きあう勇気』はこちらからご覧ください)

無意識に潜む「ステレオタイプ」と「無意識の偏見」

 今回も前回に引き続き、無意識の差別について考えてみたいと思います。

 差別は、必ずしも意図的に行われるわけではありません。むしろ私たちは、無意識に抱く偏見により、自分でも気づかないうちに他者を傷つけることがあります。

 その無意識な偏見につながるものとして、「ステレオタイプ」と「無意識の偏見(アンコンシャス・バイアス)」という、ふたつの概念があります。

 ステレオタイプとは、多くの人に浸透している、固定観念や思い込みのこと。

 たとえば、「男性は力強い」「女性は繊細である」といったステレオタイプがあると、無意識にその考えに基づいて他人を評価してしまいます。ある人が、男性であれば力強いと期待し、女性であれば繊細であると決めつけた見方をしてしまいがちです。

 一方、無意識の偏見は、自分では気づいていない偏見や思い込みのことで、その人の育った環境や経験、価値観などをもとに形成されます。

 そしてそれは、考える以前に瞬時に引き起こされ、何気ない発言や行動として現れます。

 たとえば、よかれと思ってやったことが裏目に出たり、そんなつもりがないのに相手を不快にさせてしまった…という経験はないでしょうか。

 これは相手との間に生じた解釈のズレによるものです。それは無意識の思い込みによって生じるもので、日常のあらゆる場面で私たちの行動や判断に影響を与えています。

 なお、ステレオタイプと無意識の偏見の境界線は、曖昧であることが多いです。どちらも個人の意識に上らない形で、他者に対する固定観念をつくり上げるているからです。

 そして、こうした前提や思い込みが、私たちの心に偏見を生みやすくしています。

障がい者の意思は無視される!?

 今回、取り上げるのは「障がい者に対する無意識の差別」についてです。

 障がい者に関するステレオタイプには、「彼らは独立して生活したり働いたりする能力がない」といったものがあります。

 このような見方は、障がい者を同情や哀れみの目で見る傾向を生み出すため、彼らの能力や成果より、障がいそのものが強調されがちです。

 そしてそれは、障がい者への期待を低く設定し、社会から孤立させたり、逆に過度に保護したりするような、無意識の偏見へとつながってしまいます。

 20年以上前になりますが、イギリスで音楽療法を学んでいたときのことです。

 授業の一環として、車椅子に乗って街に出かけ、人々の反応を観察するという課題が出されました。ひとりが車椅子に乗り、もうひとりがその車椅子を押します。

 当時のイギリスは、ショッピングモールなどに行く際、車椅子でのアクセスが非常に困難で、街の基本的設備が、身体障がい者にとって極めて不便であることに気づかされました。

 そして、ようやくカフェに入り、注文しようとしたときのこと。店員は車椅子に乗っている本人ではなく、押している介助者に注文を聞いてきたのです。

 この経験を通じ、障がい者は、自分の意思を表明することすら許されない、社会の圧力があることを知りました。

 このように、私たちが社会において障がい者を「支援が必要な存在」としてしか見ていないために、彼ら自身の意思や判断が軽視されることがあるのです。

 さらに、私たちのグループに対する周囲の視線は、好奇心と同時に、不快感を含んでいるように感じました。

 これらの反応は、障がい者が社会で受ける、見えないバイアスの一例といえるでしょう。

必要以上の親切が可能性を奪っていた

 さらに興味深い体験として、男性ふたりのペアが女性の下着店に入って、プレゼントを選んでいるふりをするという課題がありました。

 車椅子に乗せられたレオはこの課題を嫌がっていましたが、介助者役のニコラスに強引に連れて行かれました。

 それを見ていた年配のご婦人方から、「障がい者でも性欲はあるのね」といった揶揄(やゆ)の言葉が聞こえてきました。

 このできごとから、障がい者に対する性的な側面での偏見が、彼らの人権や意志をどれほど軽視しているのかが明らかになりました。

 それは障がい者は見た目や身体の状況だけで、能力や意思まで疑われてしまう現実です。

 同時に、必要以上の親切や過剰な配慮も、障がい者を「支援が必要な存在」としてしか見ていない、無意識の偏見の一形態といえるでしょう。

 そしてこれも、彼らの可能性を制限し、社会で活躍する機会を奪うことにつながります。

※この投稿に登場する人物の名前は実在のものとは異なります。

アリスが教えてくれたものの、真の意味

 もうひとつの例として、養護学校の音楽療法における、実習でのできごとがあります。

 私の担当は10歳のアリスという女児で、彼女には重度の知的な遅れがあり、言葉での意思疎通ができませんでした。

 しかし、即興音楽を通して、私は彼女とのつながりを感じることができました。

 ときどき、そのつながりが強すぎるためか、私を木琴のバチでたたこうとしたり、私の背中に手を入れて爪を立て、ひっかくなどの行動も見られました。

 私はアリスと、音楽を介しての結びつきを感じていました。しかし、彼女がどの程度言語を理解し、それに沿った感情を持っているのかはわかりませんでした。

 アリスとのセッションも残り1回となったとき、私たちはセッション終了のお知らせをクライアントに伝えることの重要性を教わっていました。

 その際、クライアントの反応を受け止め、理解する姿勢を示すことも求められました。

 私はアリスに、次週でセッションが終わることを伝えました。

 セッションルームまで手をつないで歩きながら告げると、彼女は立ち止まり、私の頬を思いきりたたいてきたのです。痛みや怒りよりも、驚きが先立ちました。

予想外の反応

 彼女が言葉の意味を理解していたかどうかは定かではありません。しかし、私が伝えた内容に対し、強い反応を示したことは間違いありません。

 これは、彼女が言葉を理解していたか否かに関わらず、私が無意識に彼女を「理解できない存在」として見ていたために、彼女の反応を予測できなかったことの現れといえます。

 その日のセッションはアリスはいつも以上に活発で、収拾がつかない状況となりました。

 私自身、どこか動揺していたため、彼女の行動に影響を与えたという解釈もできます。

 しかし私は、アリスを「特別な配慮が必要な存在」として見ていたことに気づかされました。

 無意識のうちに、アリスが「普通」の反応を示すとは考えていなかった…、そんな自分がいたのかもしれません。

 そして、次週のセッションの日。アリスは学校に来ていませんでした。

 私たちが予定していた最後のセッションは行われず、アリスとの関わりもそれで終わってしまいました。

偏見は自分のなかにもあると知る

 このできごとは、私に大きな学びを与えました。

 アリスとのセッションを通して感じたのは、見た目や障がいに基づく偏見が、彼女の意思や能力を正しく理解し評価する際の、妨げになっていたということです。

 アリスの言動を「理解できない」と決めつけることで、彼女の本当の気持ちや反応を見逃していた可能性があります。

 この経験は、私自身に内在する偏見に気づくきっかけとなり、それを克服することの重要性を強く感じさせるものとなりました。

 私たちが学べるのは、無意識の偏見やステレオタイプが、社会のなかで、障がい者の役割や関係性にどれだけ影響を及ぼしているかということです。

 自分のなかにある偏見に気づき、それを乗り越えていく。そうすることで、私たちはもっと公平で包括的な社会を、きっと築いていけるはず…と、そう確信できました。

 次回は、障がい者に対する優しさや母性本能の裏に潜む偏見と、それを超えて真に向き合う方法について考察してみたいと思います。

第36話はこちら

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ABOUT ME
エンジェル 恵津子
東京都出身。音大卒業後イギリスに渡り、現在はアメリカのカリフォルニア州立病院で音楽療法士として勤務。和太鼓を用いたセラピーは職員、患者共に好評。厳しい環境下で自分に何ができるのか模索しながら、慈悲深く知恵のある人を目指して邁進中。 歌、折り紙、スヌーピーとスイーツが大好き。
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