あきば大祭

己のけがれを焼き尽くす〜あきば大祭2022#3~

◆前回までのあらすじ
2022年12月3日、愛知県小牧市の福厳寺であきば大祭が行われました。秋葉本殿にてご祈祷が続く中、お祭り広場には続々と参拝者が来場、各ブースやキッチンカーが提供するお食事やワークショップを楽しむ姿が見られました。

(#1の記事は、こちらから)
(#2の記事は、こちらから)

最終回となる本記事では、大愚和尚の法話やあきば大祭のメイン行事「火渡りの儀」の様子についてご紹介します。

◆あきば大祭とは? 
あきば大祭は、福厳寺で540年以上続いている「三毒」(欲望・怒り・愚かさ)の心の火を鎮めて、「三徳」(慈悲心・忍耐力・智慧)を育てよという教えを守り伝えるための大祭です。

心の火を正しく抑えて~大愚和尚法話~

日が傾きはじめ、徐々に肌寒くなってきた頃、本堂前には火渡りの儀を待つ人々の長蛇の列ができはじめていました。

順番待ちをする参拝者の前に松明行列が登場。神聖な空気が漂います。

松明行列は、長く続く階段の上の秋葉本殿に向かいます。

秋葉本殿へ松明の火が到着すると、再びご祈祷が始まります。一方、本殿前では大愚和尚の法話がスタート。ここからは大愚和尚の法話をご紹介します。

あきば大祭は、秋葉三尺坊(あきばさんじゃくぼう)の命日である12月16日に行われていました。しかし私の代で、1人でも多くの方にご参拝いただけるよう12月の第1週目の土曜日にその日にちをあえて変えました。それは現代においてこそ秋葉大祭の意義が必要であると考えたからです。

人間は「火」によって生かされてきました。しかし、火は便利であると同時に、驚異でもあります。もしも村山や家、財産に火がついてしまったら、すべてを焼き尽くしてしまうからです。

秋葉三尺坊は、この「火」を収めるという誓願を立てて修行し、人々を火難から救うという偉業を成し遂げました。そして後世には「火防の神ではないか」ともうわさされました。

また、秋葉三尺坊の教えというのは、いわゆる物理的な「火」だけではありません。

仏教において「心の三毒(さんどく)」と呼ばれる「貪瞋痴(とんじんち)」。これは心の中の「欲・怒り・無知」を指します。私たちの心には、これらの火種が常にくすぶっています。そしていつ発火するかわからない。

秋葉三尺坊が私たちに伝えたかったこととは、「人間の火種である『貪瞋痴』を収めよ」ということではないか。そして、消防の技術がこれだけ発達した現代にも関わらず、世界のあちらこちらで「火」が起きています。戦争が起き、一国の首相が殺され、人々が心の火を暴走させている。

だからこそ、この現代に生きる皆さんにこの火を渡っていただきたいのです。

火は熱く、怖いものである。それを皆さんに「頭」ではなくて「体」で「体感」として受けていただきたいのです。

この恐ろしい火を防ぐには二つの方法があります。一つは未然に防ぐということ。もう一つは、できるだけ早く自分の心の火種に気づいて、それを収めるという方法です。

この世の中には、二つの世界が存在しています。

私たちの思いが通用しない自然の世界。私たちの思いが作り上げた世界。

これらを混乱して捉えないようにしてください。

例えば「命」。命は、皆さんが生まれる前からあるものであって、人間の考えには関係なく、自然にあったものです。

しかし、人間社会にある家も車も飛行機も、宇宙へ到達するための宇宙船も、すべて人間の思いが作ったものです。戦争も同じです。

家庭でいえば、お父さん・お母さん・子どもが物事を考え行動することが家庭をつくり、その延長に地域や社会がつくられます。だからこそ、そのおおもとにある「心の火」を正しく抑え、コントロールしていかなければ、心の中にある火種が、現実の世界に飛び火して、さまざまな災難となるのです。

皆さんには、心の火種、三毒「貪瞋痴」の怖さを痛感し、それを収めていただきたい。

しかし、私たちはすぐに忘れてしまいます。ゆえに一年に一回このあきば大祭で、年の最後にけがれを払うとともに、自分の心の中にこの気持ちを思い起こして欲しいのです。

己のけがれを焼き尽くす~火渡りの儀~

大愚和尚の法話が終わると、秋葉本殿から、火に姿を変えた、秋葉三尺坊大権現が降臨し、火渡り斎場に火が灯されます。

炎が燃え盛る中、火を渡る一瞬の機会を見定める大愚和尚

気合の掛け声とともに、大愚和尚が先陣を切って火を渡ります。

意を決した参拝者が、次々と大愚和尚に続きます。

炎が渦巻く、灼熱の結界内で、ほら貝を吹き続ける若き僧侶

少女も勇気を出して1人で歩みを進めます。

小さなお子さんを抱っこして渡るお父さんの姿も。

足元だけでなく、思わず目を閉じてしまうほどの熱さの中を進みます。

結界を大勢の参拝者が囲み、幻想的な一夜に。

思わず顔を覆いたくなる、足元から込み上げる熱さ。そんな火の中を進む人々の深い思いや決心が渦巻くかのような火渡りの儀です。

火の中央に差し掛かる頃、熱さや思いにかられて思わず足を止めてしまう方も少なくありません。540年もの間一度も大きな事故もなくあきば大祭が続けられていることは、まさに奇跡としかいいようがありません。

決して躊躇せず、立ち止まらず、ただひたすら歩む……火渡りの一瞬に、私たちは人生を重ね、さまざまなことを学んでいるのかもしれません。

まだ足を運んだことがないという方は、ぜひ来年こそご参加ください。火渡りの儀は、あなたにとって欠かせない一瞬をもたらすに違いありません。

編集後記

参拝者の熱いまなざし、ボランティアスタッフの慈しみの心、お祭りを進行する僧侶の命をかけた行動の一つ一つ。火を巡る人々の写真を撮りながら、私は思わず涙をこぼしました。

この日、この火の中にどれだけの人の思いが溶け、そして救われたのでしょうか。

私は、困難を感じて目の前が闇に支配された時も、自ら灯りをともし、そのささやかな灯りを頼りに一歩ずつ歩みを進められる人間でありたいと常日頃から願っています。しかし炎を前にした私が得たのは、違う感覚でした。

「人間は自分一人では生きられない、私ははかない存在である」

自らの願いと反するようですが、どちらの感覚も忘れてはいけないーーそう教えられたのだと強く感じる夜となりました。

一年の最後に、心の三毒を焼き尽くすあきば大祭の取材をさせていただき感謝の念に堪えません。

桐嶋つづる

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