私に刺さった一問一答、今回ご紹介するテーマは『自分を拠り所にして生きる「自灯明」の心得』です。
「自分の信仰に疑問を抱くようになった」
「信仰を続けるべきかどうか迷っている」
心から信頼し、生きる指針としていたものに対して違和感や疑問を感じた時、私たちはどの様にその感情と向き合えばよいのでしょうか?
大愚和尚の仏教の教えが紐解く答えと、このテーマが私に刺さった理由をご紹介します。
ご相談者のお悩み
ペンネームひいちゃん、27歳男性のお悩みです。
私は大学生の時、あることがきっかけで鬱(うつ)に近い状態となりました。
私の母親は、ある新興宗教を信仰しているのですが、私も「自分に頼れるものはここにしかない」という思いから、母と同じ宗教の御教えを実行するようになりました。
当時は信仰に救われたため、ありがたく思っていましたが、社会人になってからは自分の信仰に疑問を抱くようになりました。

社会で働いていく中で、この信仰を続けてよいのか。あるいは、少しだけ携わる程度の一つのコミュニティと捉えればよいのか。
難しい相談かもしれませんがアドバイスをください。よろしくお願いします。
大愚和尚の教え
お釈迦様の言葉に、「自灯明(じとうみょう)・法灯明(ほうとうみょう)」という教えがあります。
私は僧侶の息子として、お寺で育ちました。自分にとっては、お寺や仏教という存在があまりに当たり前だったため、あえて他の宗教やさまざまな信仰を求めたことがあります。
けれども今私が思うことは、仏教は、あきらかに他の宗教とは考え方を違(たが)えているということです。お釈迦さまの教えとは、学べば学ぶほど「本質」であると思うからです。
相談者さんが今信仰している宗教が、キリスト教系か、仏教系か、あるいはミクスチャー(混合)かはわかりませんが、中には都合の良いエッセンスをうまく利用して利益を増やそうとする教団もあります。
一方、お釈迦様は人々を宗教的な概念への囚われから解放したのです。
「あなたがあなたの人生をあなたとして生きていくために、自尊心を持ち、智慧をつけ、あなたの命を、責任をもって全うできる人間になりなさい」と。

つまり仏教は、「何かの教えに入らしめるための教え」ではなく、「自分自身を拠り所にしなさい」という教えなのです。これが自灯明です。
しかし、なんの指針もなく急に「一人で生きていきなさい」と大海原に放り込まれても、人間は生きていけません。その時に必要になるのがブッダの教え、これが法灯明です。
では、相談者さんの今の状態はどうであるのか。
大愚和尚はこういいます。「『この教えはどうなのか』と疑問を抱く。これは、まさに今相談者さんが自灯明を確立しようとしているのかもしれない」と。
さて、相談者さんはこれからどのように信仰に向き合えばよいのでしょうか。
処方箋を見ていきましょう。続きは動画でご覧ください。(下の画像をクリックしてください)

編集後記
「どのように生きたらいいのか」「自分とは何か」と、必死に生きる中で、とめどなく沸き起こる迷いや不安。
ゆえに、自分以外の何かを信じて拠り所としたいという現代人の心の在り方。そして、それに呼応するように溢れかえる情報や選択肢……
昨今ニュースで取り沙汰される宗教問題を耳にする度、「現代の危うさ」が浮き彫りになっているのではないかと感じます。
なぜなら、お釈迦様の説いた「自灯明・法灯明」は、自らを鍛え、自らの力で悩みや迷いを乗り越え、たくましく生きる知恵を学ぶ者が宿すものであり、その教えは、迷いの中にいた私に「自分の力で生きるための一石」を投じてくれたからです。

宗教や信仰、それらを超えた"生きることの本質"を説く真理。その真理とともに力強く、かつ軽やかに、自らの足で歩んでいきたいと思います。
野田悠子