とつぜんに響きわたる歌声
やや雨模様ながら寒くはなく暑さもない、過ごしやすい気候となった令和6年の花まつり。法話会の直前になると大勢の来場者が、本堂の前に集まりました。
そして開始時刻になったとき、本堂の脇に設置されたスピーカーからは、とつぜん歌声が流れてきました。
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ぼくらはみんな 生きている
生きているから 歌うんだ
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それは録音ではなく、その場で誰かが歌っている声です。
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ミミズだって、オケラだって、アメンボだって
みんな、みんな生きているんだ、友だちなんだ
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法話が始まると思っていた聴衆の皆さんは、不思議そうな顔をしたり、ある方は聴き入ったりと、さまざまな反応を示します。
アンパンマンの作者でもある、やなせたかし先生が作詞した“手のひらを太陽に”。この曲に込められた想い、そして歌詞に登場する3つの生き物の名前、実はこれらは花まつりの重要なテーマと結びついていました。
具体的には、いったいどのような意味が秘められているのでしょうか。そして、なぜ法話の冒頭にこの歌が流れたのでしょうか。
花まつりは何のために行うのか
午前8時、本堂のご本尊前。
頭がキリッと引き締まるような澄んだ空気のなか、花まつりの運営メンバーや奉賛者(有志で様々な協力を行う方々)が集まり、朝礼が行われました。
まずは、それぞれの持ち場や動きを確認するとともに“そもそも、花まつりはなぜ行うのか”について、福厳寺僧侶の知哲(ちてつ)和尚より、お話がありました。
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皆さま、今日もっとも大切にして頂きたいこと、それは「生きとし生ける、すべての命が幸せでありますように」と願う気持ちです。
私には娘がいるのですが、生まれて来てくれた日を思い出すとき、あの幸せな想いは、今でも心に刻まれて忘れられません。「どのような子なのかな」ということよりも、ただひたすらに「無事に生まれてくれたら、もうそれだけでいい」と、懸命に祈りました。
ここにいる皆さんも、これから花まつりにいらっしゃる方も、だれしも赤ちゃんの時代がありました。すべての原点として、人の命が生まれて来る喜びを胸に刻みましょう。それを全ての人への慈悲心へと変えて、育む一日にしましょう。
そして初めて来られる方も、もう何度も足を運ばれている方も、この福厳寺で楽しく交流して、それぞれのご縁を結んでいただけたならば、きっとお釈迦様もお喜びになると思います。
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にぎわうお祭り広場
多くの方が足を運びやすいゴールデンウィークの初日。気候の良い季節でもあり、福厳寺の境内は、うつくしい新緑で包まれていました。
厳しい冬を乗り越えて春を迎えた草木は、光を求めて上へ上へと伸び、そのエネルギーや風景は、目にする人々の心を明るくします。また各所には色とりどりの花など、うつくしい飾り物が来場者を出迎えていました。
そのような中、本堂の前には不思議な軽トラックが止まっています。フロントガラスに描かれた謎の目玉と、パイプ。よく見ると「ああ、ゾウになっているのか」と分かり、そのユニークさには思わず、くすっと笑わされてしまいます。
しかし一方で、会場の飾りつけをするにしては、車まで持ち出すのはやけに大掛かりです。毎年さまざまなサプライズも企画する福厳寺、これも何かの“仕掛け”があるのではと予感させられました。
またお祭り広場のキッチンカーや屋台を巡れば、ちらし寿司や花まつりクレープなど、春にちなんだメニューも並び、さまざまなグルメが来場者を楽しませます。
とくに“万福庵(まんぷくあん)”で人気を博したオリジナル・グリーンカレーでは、境内で採れたタケノコも使用され、シャキシャキの食感がたまりません。ココナッツミルクのやわらかな味わいの中に、ピリリとスパイスが効いた美味しさも、口にした人の舌を幸せにします。
また広場では、さまざまな体験型ワークショップも開かれ、福厳寺に自生する苔を使用した“苔テラリウム”や、写仏や写経に臨んだ参加者は、静かながらも濃密な時間を過ごされているように見えました。
一方で本堂では厳かな鐘の音と、力強い太鼓の音が響きわたり、花まつり法要が始まります。気持ちが穏やかになるお香が焚かれ、また花びらを模した散華札(さんげふだ)が蒔かれ、本堂がお清めされました。
法要の参加者は心を1つにして手を合わせ、最後に花まつりを象徴する、お釈迦様の像に甘茶をかける儀式へ臨みます。その際に大愚和尚から“この儀式は何のために行うのか”について、お話がありました。
お釈迦様の像が示す〝天上天下唯我独尊(てんじょうてんげ・ゆいがどくそん)〟のポーズは、生きとし生けるすべてを祝福する、命の宣言であること。そして甘茶を注ぐときに感じる慈しみの気持ちを、儀式の一環ではなく、自身の思いやりの気持ちに変えて、普段から実践して欲しいと語られました。
うつくしく彩られたお釈迦様の台座を前に、参加者はそれぞれの想いで甘茶をかけ、本堂は穏やかな空気に包まれました。
【座禅会】何も考えないことの難しさ
この花まつりでは初めての試みがいくつかあり、秋葉本殿のなかで行われた座禅会も、そのひとつです。これは、もともと決まっていた予定ではなく、福厳寺内の環境や山林の保護を担当する、内弟子の成道(じょうどう)さんが提案し、開催されたものでした。
お祭りの喧騒から離れ、境内の木々に囲まれた静かな環境で40名近い参加者が、約30分の座禅へ臨みました。参加者は小学生の子から年配の方まで、年齢も性別も様々です。
開始を告げる鐘の音が響くと、辺りはたちまち静寂に包まれます。ふだんは聞き流すような“ピチチ”という鳥の鳴き声、遠くの道路の“ブロロ・・”というエンジン音、近くの参加者が姿勢を変えれば“スリリ・・”と、衣服が擦れるわずかな音まで、聞き取れるほどです。
一般的にはよく“心を無にする”という話を耳にしますが、じっと身体を動かさずに、知覚する物事を“気にしない”ことがどれほど困難か、取材班も会場の隅で同じ体験をさせて頂きましたが、その事実を肌身に感じずにはいられませんでした。
~参加者のお声(福原慶宗さん/ほの花さん夫妻)~
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今日は大阪から参りました。座禅を開始した最初は心も落ち着いており、最後まで集中してやり通せる気がしていました。しかし、おそらく10分ほどが過ぎた辺りからでしょうか、だんだんと足が痺れ、後ろの方の呼吸も気になるなど、完全に心がゆらいでしまいました。
それを何とか抑えようと思うのですが、なかなか出来ないことが、今度はいら立ちの感情へと変わるのがわかりました。後半は「いつ終わりの鐘が鳴るかな」などと考えるあり様で、まったく“今”に集中することなく終わってしまいました。
座禅の前に説明をして下さったお坊さん(成道さん)が、「私自身も座禅で、まだ怒りを消すことが出来ていません」とお話されており、最初はどういうことかと思いましたが、その意味がよく分かった気がします。
思い返せばふだんの暮らしで、30分もじっとして心を落ちつかせる経験など、ほぼありません。ただ座るだけならば出来そうと思っていましたが、その行いひとつに難しさと深みがあり、それを体感できたことは大きな収穫でした。
きっと自分にはまだ成長の伸びしろが山ほどあり、そこに気付くこともできたので、このたび参加させて頂けて本当に良かったです。
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このように楽しいお祭りの雰囲気に加え、さまざまな体験や学びの機会にもあふれる、佛心大祭・花まつり。
時刻がお昼を過ぎると、この行事で最も大切なメッセージが語られる、特別法話会も行われます。そこでは冒頭に感じた疑問に対する答えもあり、また花まつりの核心ともいえるメッセージも語られました。
ぜひ次の記事も引き続き、ご覧頂けましたら幸いです。