むかし、むかし・・。おとぎ話で触れるような、はるか昔。
どのような方の、どのような出来事が繋がり、福厳寺は誕生したのでしょうか?
三代忌では大愚和尚より、その歴史について、深堀りしたお話がありました。
ここからは、少し物語風のイメージに膨らませて、その内容をお伝えしたいと思います。
500年前の物語
ときは室町時代。今でいう岡山県に洞松寺 (とうしょうじ)というお寺がありました。
そこには名僧と言われた、霊岳洞源(れいがく・とうげん)という和尚様がいらっしゃいました。
霊岳和尚様は、静岡の大洞院(だいとういん)というお寺に招かれ、住職として赴任するため、弟子たちを連れて旅に出られました。
さて、その弟子の一人に、月泉性印(げっせん・しょういん)という和尚様がいました。
幼少からずっと師の元で修行を積みましたが、しかし若かりし頃、こんな想いに駆られたことがありました。
師はこれまで良くして下さった。だが私は、もっと広い世界を見てみたい。
師のもとを離れて各地を旅し、様々な寺院で修行も重ねました。
しかし、ある時こう思いました。
未だに様々な迷いが頭から離れない。やはり原点に返り、いまいちど師に教えを乞いたい。
そうして師のもとに戻り、あらためて修行を積んで、悟りを開かれた方でした。
その月泉和尚様ですが、霊岳和尚様と大洞院へ向かう道中、尾張の国の人々に教えを乞われました。
そして自身はそのまま、宝積寺(ほうしゃくじ)というお寺に留まり、仏法を広めることになりました。
さて、そこからさらに旅を続ける、霊岳和尚様の一行。
しかし現代のように、飛行機や電車はありません。岡山から静岡までの距離は、すべて歩きでした。
それに今のように行く先々、東急ホテルやアパホテルなどはありません。ヒルトンホテルやリッツカールトンも、もちろんありません。
辿りついた先々の民家に「頼もう」と訪ね、泊めてもらう旅でした。
そのようにして尾張の国でも、とある農家に宿を求めたのでした。
うわー、お坊様が泊まりにきた!うわー!!
その一家には1人の男の子がいました。
はっは。これはまた、たいそう元気な童(わらべ)じゃ。
しかし、一緒の時間を過ごすうち、霊岳和尚様はあることに気づきます。
この子は・・とてつもなく聡明だ。並々ならぬ才能を秘めておる。
そして、両親にこう言いました。
この子を僧として、私に預からせて貰えますまいか?
現代では考えられないことですが、今のように学校も存在しない時代です。
高僧に認められ、お寺で勉強できる機会は、人生のまたとないチャンス。
両親は申し出を受けることにします。
この男の子こそが、後の盛禅和尚様でした。そのまま霊岳和尚様とともに大洞院へ行き、修行の日々を送ります。
しかし青年期に差しかかったころ、盛禅和尚様はこう思いました。
師はこれまで、良くして下さった。だが私は、もっと広い世界を見てみたい。
こうして師のもとを離れ、各地を旅した後、京都に行きました。
当時、日本の中でも、もっとも華やかな京の都。
現代で言えば、地方の子が東京に憧れるような、そうした気持ちがあったのかも知れません。
そして今でも有名な臨済宗の大本山、祇園の地に建つ建仁寺(けんにんじ)を訪ね、そこで日々を過ごすことになりました。
しかし修行を重ねていたある日、秋葉山(静岡県の霊山)に住まう、秋葉三尺坊が夢枕に立ち、こう言いました。
我はそなたが大洞院に来て以来、ずっと守護して参った。しかし、そなたは京の都に。我はもう、そなたのもとを離れよう。
その夢を見て、盛禅和尚様は思いました。
広い世界に憧れて、私はここまで来た。しかし未だ、様々な迷いが頭から離れない。思えばこれまで、本気で修行して来なかったのかも知れない。
そして決意しました。
もういちど師のもとに戻ろう。原点に戻って、教えを乞おう
こうして京都を離れ、再び大洞院へ。しかしこのとき、すでに霊岳和尚様は高齢で、身体もずいぶん弱っていました。
私ではもう、お前の修行をしてやることは出来ない。兄弟子の月泉を頼れ。そこでなら、必ずや望む学びが得られよう。
こうして盛禅和尚様は、めぐりめぐって故郷の地、尾張へ。
そして月泉和尚様のもと宝積寺(ほうしゃくじ)で修行し、ついには悟りを開くに至りました。
・・さて、この地は当時、西尾道永(にしお・どうえい)という大名が治めていました。
領主ではありましたが仏法に帰依し、月泉和尚様に弟子入りしていたのでした。
西尾道永は言いました。
師よ。このごろ世の中は、人心乱れること甚だしく。師の仏法を、もっと広めとうござりまする。どうか皆に、生きる道しるべを。
宝積寺は小さなお寺で、月泉和尚様の教えも、いちどに多くの人が聞くことは出来ませんでした。
この道永、さらに大きな寺を建立いたしまする。その地にお移り頂けませぬか?
しかし月泉和尚様は言いました。
いえ、私の身には過ぎたること。それには及びませぬ。
・・ところが、それから時が過ぎ、京都で応仁の乱が勃発。
地方でも一揆や権力争いが頻発し、世の中は混迷を極めました。
師よ、ご覧下さりませ。今の世の、この有り様を。力ある者は、互いに喰らい合い。力なき者が、殺められておりまする!
・・・・。
誰も彼もが生きる道を、見失なっておりまする。師よ、かつてのお話し、いま一度お考え頂けませぬか。なにとぞ!
分かりました。ではその新しき寺には、盛禅洞奭が行きましょう。かの者ならば、必ずや人々の支えとなり、立派にお役目を果たすことでしょう。
西尾道永は盛禅和尚様にも弟子入りし、居城にほど近い領地の一帯を寄進。
こうして誕生したのが、福厳寺でした。
しかし盛禅和尚様は言いました。
いま私が、このような素晴らしい寺に勤められるのも、すべては師と兄弟子あればこそ。お2人こそ住職の名にふさわしい。
このようにして、実際は盛禅和尚様から始まった福厳寺ですが、初代を霊岳和尚様。2代目を月泉和尚様とし、自らは3代目住職を名乗られました。
周辺の人々も、盛禅和尚様を「三代様」と呼ぶようになりました。
このようにして、以後505年間。今にも続くご命日の法要を「三代忌」と言うようになったのでした。
不思議なつながり
かつて福厳寺の創建に関わった和尚様。
そのお2人が、いちどは師のもとを飛びだし、各地を回って戻って来られています。
大愚和尚は、これを「なんとも面白く、なんとも不思議な繋がり」と。自らの歩みに、重ねていらっしゃいました。
そして、この盛禅和尚様の物語。
霊岳和尚様が、たまたま尾張の一民家に立ち寄らなかったら。わずか1つでも、出会いや決断が違ったならば。今ここに誰もいない。
わずかな、わずかな可能性が繋がって、存在する今。
その“有り難さ”に対する“ご恩”の気持ちを、語って下さいました。
編集後記
三代忌の帰り道、私は福厳寺から徒歩十数分の、とある史跡に立ち寄りました。
大草城(おおくさじょう)跡。
福厳寺誕生のきっかけを作った、西尾道永の居城だった場所です。
かつては領主の館があり、堀や曲輪も構えられ、多数の武士が住んでいました。
それも今では雑木林と竹林の中に、小さな碑と祠が残るのみです。
栄枯盛衰。しかし、その想いを託した福厳寺は500年もの間、守られ、受け継がれ、いま大勢の人々が集っている。
それが、とても尊く感じられ、祠の前で手を合わせました。
原田ゆきひろ