◆前記事のあらすじ
2023年12月2日(土)に福厳寺で行われたあきば大祭。広場がお祭りで賑わう一方、秋葉神殿では加持祈祷が行われ、夕刻の松明行列を皮切りに、大愚和尚の法話や儀式の核心となる火渡りがいよいよ始まりました。
≫人間の心を表す炎の道①~あきば大祭2023~
≫人間の心を表す炎の道②〜あきば大祭2023~
今年も大変多くの方が火渡りに臨まれました。大人もこどもも、思わず顔を覆いたくなるほど熱い火炎の中を、勇敢に一歩ずつ前に進みます。
火渡りを経験された方は、どんな思いを抱えてこの日を迎えられたのか、はたまた火渡りを経験したことで、どのような感覚や気づきを得られたのでしょうか。今回の記事では、参拝者のみなさまからの熱いメッセージをお送りします。
炎の道を歩み、知ったこと
運営スタッフをはじめ取材班も、あきば大祭では参拝者に続いて、火渡りに臨ませていただきました。時間が経過すると火の勢いは、始まりの何分の一にまで収まり、炎は足元の高さ位まで小さくなります。
しかし、それでも顔を覆いたくなるほどの熱気が込み上げ、思わず目を閉じてしまいます。自身の心に潜む「これぐらいなら大丈夫」と思う三毒も、目の前の火のように計り知れないエネルギーがある。そのことを、全身で体感しました。
また、火渡りの道は平たんではなく、凹凸があります。もし油断をして転倒すれば、炎に身を投じてしまうのではないかと、恐怖がよぎりました。
傍らには、絶え間なく真言を唱える僧侶たち。参拝者に万が一の危険を察知すれば即応できるよう、片時も集中力を切らしません。
熱い結界の内側で終始、参拝者を見守る僧侶たちの存在によって儀式は成り立っているのだと、肌身を持って感じました。
火渡りを終えた参拝者は全員、そのまま高台の秋葉本殿へと進むのですが、その足元を照らすため、境内には各所にかがり火が焚かれています。斎場の炎に比べれば、優しい火にさえ見えてきますが、このかがり火も放置すれば、たちまち火事へと発展する危険をはらんでいるのです。
境内の入口には消防車も待機、万全の体制で火の管理を行っています。
長年、福厳寺はあきば大祭での火の勢いを落としていません。しかし、それは「絶対に皆を守る」という、強い意志があるからこそ成り立ってきたのだと、改めて考えさせられます。
あきば大祭に臨んで【参拝者のお声】
火渡りを体験された皆様のお声からも、たくさんの学びがありました。その中の3名のインタビューを、ここでご紹介させていただきます。
①三宅さん(広島県)
【火渡り前】
福厳寺には初めて伺いました。せっかくの機会ですので、終日あきば大祭を堪能したいと思い、朝一番の電車と新幹線を乗り継ぎ、母と2人で参りました。
最初のきっかけは、1年ほど前に母が家事をしながら、大愚和尚の動画を見ていたことでした。それが自然と私の耳にも入って来たのですが、ちょうど自身の悩んでいたテーマの内容であったため、思わず聞き入ってしまったのです。
それから他の動画も視聴し、お話を聞くほど「これだ!」と納得し、心が晴れて行く感覚でした。広島の大愚道場にも親子で参加し、母も「息子と仏教の話をできるようになって嬉しい」と言ってくれるようになりました。
【火渡り後】
想像していた以上の迫力で、正直なところ最初は恐ろしくて、足がガクガク震えてしまいました。しかし、ここまで来たからには「行くぞ!」と決心し、渡り切ることができました。そして、ふと気づくと清々しい気持ちになっており、心が洗われたようでした。
母も同様に火の勢いには驚いていましたが、ひとたび一歩を踏み出せばそのまま前進し、歩みの最中は、むしろ冷えた体が解きほぐされるような感覚もあったと言います。今は2人とも、身も心も軽くなっており、今日は参加できて本当に良かったです。
②キリル・ペトロフさん
【火渡り前】
今日は三重県から来ました。出身はブルガリアで、日本には3年ほど住んでいます。わたしは日本の神社仏閣が好きで、四天王寺(三重県)の坐禅会へ参加しているのですが、一緒に坐禅をした方から福厳寺のことを聞き、勧められて来ました。
私の故郷にも「シルニ・ザゴベズニ(ゆるしの日曜日)」という、火の上を飛び超える祭りがあります。これはキリスト教の行事ですが、もともとはキリスト教が広まる以前の、古代の地域信仰から受け継がれている風習です。
この儀式には人間関係で生じた悪い感情を浄化し、他の人を許し、精神的に生まれ変わる意味合いがあります。火渡りとイコールではありませんが、どこか共通している部分もあり、とても興味を持ちました。
また、これは個人的な感覚ですが、最近は東ヨーロッパ人も日本人も、伝統や宗教にあまり関心を持っていない気がします。ですから福厳寺が仏教を様々な形で発信し、今日のように人々が集うことは、多くの日本人にとっても素晴らしいことだと思います。
【火渡り後】
故郷の儀式は炎を飛び越えれば終わりでしたが、火渡りはもっと距離があり、渡る前は怖く見えました。しかし実際に私の番になると、たしかに熱くは感じましたが、身体の方は全く大丈夫で、安心して渡り切ることができました。
悪い感情を捨てるべきということを、言葉だけで教えられるのと、身をもって知るのでは、まるで違いますね。今は頭から余計な考えがなくなり、心がリフレッシュしているようです。また今後も、参加したくなりました。
③4人家族のお母様(千葉県)
【火渡り後】
私たちは去年のあきば大祭も、子ども達を連れて家族で伺いました。じつはその時は参拝者の中で、一番最初に火を渡ったんです。
ところが今年は風があったからでしょうか、とても火の勢いがあり、子ども達が「怖い」と言い出しまして、仕方なく今年は親だけで渡ることにしました。(※近年の松枯れにより材木の種が変わったため、例年に比べ火が強かったのだと予想されます)
私も火の熱さと怖さに一瞬心が乱れかけまして、合掌している手がグラグラしていることに気づきました。
しかしグッと手に力を込めたら、お腹に力が入ってまっすぐ歩けたのです。改めて合掌の力と、大切さを感じました。子ども達も「次こそは渡りたい」と言っています。また家族で一緒に来させていただきたいと思います。
編集後記
取材では火渡りの一部始終を、間近で拝見させていただきました。最初は風情を感じた松明の火。それが、ものの数分で恐怖を感じるほど燃え広がる光景には、圧倒されました。
あの火が人の感情だとすれば、あれほどの炎は、とても手に負える気がしません。自分の力で三毒を鎮めるのはいかに難しいか、深く考えさせられました。
今は鮮明に思い出せるあきば大祭の炎ですが、日を追うごとに記憶が薄れていくことでしょう。だからこそ毎年参加する意味があると思います。ぜひ来年も参加して、より学びを深めたいと思います。
取材者:山田かよ
火渡りの後、秋葉本殿前でたまたま居合わせた女の子2人の姿に、とても心を打たれました。 頭を下げたまま合掌の姿勢を崩さず、無心に拝む2人の意識は、外界と切り離されているように見えました。
気づきや学びに年齢は関係なく、むしろ小さいからこそより純粋に、この火渡りで何かを感じ取ったのではないでしょうか。
あきば大祭は自身が得る体感も大きいのですが、ともに集った方のお姿や佇まいに触れる事でも、心に大きな変化がもたらされます。 実際にいらっしゃった方も、まだ経験がない方も。是非この先に開催されるあきば大祭に足を運び、この体感や想いを共有できましたら幸いです。
取材者:原田ゆきひろ